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第11号「暮れの一息」 平成12年12月
第10号「大人への一歩」 平成12年10月

第9号 「過知不幸 不知幸福」 平成12年9月
第8号 「二つの勇気 」  平成12年8月
第7号 「幸せを手に入れる最も大切なものは?」 平成12年7月
第6号 「人が 変わる時!」平成12年6月
第5号 「あなたの夢は何ですか」平成12年5月
第4号 「我が家の先生 パート2」
第3号 「我が家の先生」
第2号 「失意の彼女からの贈り物」
第1号 「彼女からの贈り物」


暮れの一息
 
暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・  
息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
       「 フウーッ・・・・・!」
 
ひとつ 変なことを お聞きしていいですか?
あなたは この一年
どんなことで 迷いましたか?
どんな時に 迷いましたか?
そして その迷いから 何に気づきましたか?
       「・・・・・・・・?」
やらないで済まそうとする自我の誘惑に どれだけ打ち勝ちましたか?
いつもの自分の安全圏から 何回 踏み出しましたか? 
       「・・・・・・・・?」
 
この一年 ありがとうございました。
 
平成12年12月

大人への一歩

私は54歳になった今も、完全に大人になりきれない自分を持て余している。 自分の求めるように、相手が認めてくれなかったり、 期待するように対応してくれなかったりすると不愉快になる。 相手の出方次第で、一喜一憂するなんて未熟だと頭で分かっていても、 どこかで腹を立てている。そして、そういう自分に腹を立て、惨めになる。 そういう繰り返しの中で、人間関係が煩わしくなり、自信を失う。  そういう最中、「目から鱗」の如き学びがあった。    人間は不完全な存在であるが故に、心が完全に満たされることはない。  人間は誰でも皆、満たされない心を持つ、心さびしき存在。  犯罪者は、心を満たすものが手に入らないが故に犯罪を犯す。    親がどんなに子供を愛しても、その愛は、決して子供が求めているような  愛にはなっていない。自分が与える愛と、相手が求める愛の間にはずれがある。  そこには、「人間的限界がある」という謙虚さが必要。   この二言に衝撃が走り、しばらくの間、頭の中は揺らいでいた。 揺らぎがおさまった後に、「何で自分だけがこんな目に遭うのだろう」 「どうして分かってくれないのだろう」と 思いがちだった自分の心の中に、ほっとした安らぎが生まれていた。   長所だけの完全な人は存在しない。 長所と短所が半分づつという不完全な私たち。 自分の心さえも完全に満足させる事が出来ない不完全な私たち。 自分の不完全さを棚上げにして、 相手に完全性を要求するのは、どれだけ虫の良い話か。  このことに気づいた瞬間、大人へ一歩近づいたような気がした。  

平成12年10月

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過知不幸 不知幸福

(中国西安旅行での体験)  私は今まで、幸せになる為に、幸せに必要と思われる知識やモノを、 あれやこれやと手に入れて来ました。 そして、少しは幸せに近づく方法が分かった積もりでいました。  ところが今回の西安の旅で、分かった積もりのことが大いに揺らいでいます。  その理由は、西安の夕暮れ時に至る所で目にした光景です。 公園や家の軒先で、のんびりと座っている人のなんと多いことか。 その顔を見ると、豊かそうには見えないが、不幸せそうにも見えない。 日本では捨ててあっても誰も拾わないようなモノを、荷車に大事そうに積んで 家路を急ぐ人。その顔をどう見ても、不幸せそうには見えなかった。    今、日本は情報化社会と言われ、膨大な情報が毎日、我々の前にあふれています。 幸せを求めて、必死に情報を追いかけ手に入れようとしています。 西安でのんびり座っている人には無縁のことです。  今日を生きる為に必要以上のことを知らないからこそ、のんびり過ごせ、  必要以上のものを期待しないから、安心して暮らせるのだろうか?    短絡的な結論かも知れませんが、今回の旅で気づいたことは、 人生とか幸せって、自分が考えていた以上にシンプルのような気がします。   朝起きて(体に多少具合の悪い箇所があったとしても、今日一日の命があり)   家族がいて(腹が立ったらケンカして、うれしいことは一緒に喜び)   その日の仕事があり(地位や収入は取り敢えず・・・)   帰る家があり(多少手狭な家でも、家族が一緒に暮らせ)   三度の食事がとれる(贅沢は出来なくても、あったかい味噌汁がある)   生きる上で、必要以上のものを期待しないと あんなにのんびり、自由に安心して生きられるんでしょうか?  「知りすぎた不幸・知らない幸せ」を感じたのは、私だけではないような気がします。

平成12年9月

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生きる上で、大切な二つの勇気

日々の生活をしていて、「果たしてこのままでいいんだろうか?」 と不安になったり、落ち込んだりした体験は、誰しもあることと思います。  この迷いは、どこから来るのだろうか。 「この仕事は自分に合っていると思って、やってきたが、今一つ、しっくりこない」 「なんとなく惰性でやってきて、このままじゃまずいと思っている」 「本当は他の仕事がしたかったんだが、条件(環境・能力・資金・人脈等々)が 不足していて、やむおえず、今の仕事をしている。やる気が起きない」   (どんな理由にせよ、一応は自分でベストな選択をしているし、  どんなに好きな仕事でも、楽しい事ばかりでなく、義務と責任が付随するものです)    このような迷いを吹っ切る一つのものが、「捨てる勇気」です。 気に入った服が2着あって、どちらを着ようかと迷った時、両方とも着たら おかしいですよね。一方を着たらもう一方は着るのをやめねばなりません。 服一着で、大げさな言い方になりますが、一つのことを選択するということは、 他の全ての可能性を捨て去る勇気を持つことです。    迷いを吹っ切るもう一つのものは「賭ける勇気」です。 人生は一瞬一瞬の選択・決断の連続です。 もし、他の選択だったらと頭で考えた瞬間、集中力が消え、中途半端になりやすい。 問題のない道は無いし、悩みのない道も無い。 どの道を選択しても、それぞれに問題は起きてくる。 これを乗り越えて、自分の選択に賭けて行くしかないのが人生では?     他にもいい仕事が一杯あるかも知れないが   他を捨てて選んだ道だもの この道が最高の道 こう思うしかない   自分が選んだ道だもの この道を乗り越えて 賭けて行くしかない  「捨てる勇気」の無い者は 集中力を発揮できない  「賭ける勇気」の無い者は 潜在能力を発揮できない

平成12年8月

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幸せを手に入れる、最も大切なものは?

人は誰しも「幸せになる資質」を与えられて、この世に生を受ける。
しかし、世間を見渡すと、「幸せになる資質」を持っているにもかかわらず、
「幸せな人」と「幸せでない人」とが存在する。
この違いはどこにあるのか。
最近、学んだことの一つに、太陽光線のことがあります。
 皆さんは、太陽光線は、明るく暖かいものと思っているでしょう。
実は、太陽光線そのものは、明るくもなければ暖かくもないんです。
「えっ」と思われるでしょうが、それが証拠に、
もし、太陽光線が明るく暖かいんだったら、太陽と地球の間の宇宙空間は、明るく暖かいはずです。しかし、宇宙空間は暗く冷たい。
太陽光線は、確かに、明るく暖かい資質を持っていることは間違いありません。
しかし、資質を持っているだけでは、それを顕在化できないんですね。 なぜ地球では、明るく暖かいのか?
その理由は、地球に空気があるからです。
太陽光線は、空気に反射すると、光と熱が出てくる。
反射しないと、光も熱も出てこない。
元々、備わっている太陽光線の資質は、空気に反射することによって顕在化される。  私たちに備わっている「幸せの資質」も、同じことが言えないでしょうか?
私たちの資質は、何に反射すると顕在化されるのでしょうか?
 幸せになっている人達の、共通項を見ると分かります。
それは、「感謝すること」のような気がします。
「感謝」をベースに生きている人達は、持って生まれた幸せの資質を
「感謝」という空気に反射して顕在化させている。
与えられた環境をありがたいと思うから、努力することが苦にならない。
(当たり前と思うと、努力することが特別なものになる)
感謝するから、自然に明るく暖かいエネルギーが出てくる。
元々、備わっている幸せの資質が、「感謝」という空気に反射して顕在化される。  幸せを手に入れる、最も大切なものは、「感謝」することではないでしょうか?
とは言っても、「自我」を持つ私たちにとって、実践することはむずかしい。
だから、この世に「幸せな人」と「幸せでない人」が存在するのでしょうか?  幸せになることは、とてもシンプルなんですが・・・・

平成12年7月

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人が 変わる時!

 人は一体何によって変わるのだろうか?
色々な要因が挙げられる。その最大のものは、「出会い」のような気がする。

その理由の一つ目は、
 知識がいくらあっても、その人の行動を変えることは難しい。
 「分かっちゃいるけど、やめられない」を生きがちである。
 しかし、ひとたび、心の奥に響くような出会いに直面した時、
 人は変わる。 
 「百聞」の知識があっても、「一見」の出会いに勝るものはない。
 
その理由の二つ目は
 ある出会いを選択する時、人の生き方に違いが起きる。
 出会いという言葉には、どこか偶然性の高い響きがある。
 確かに、子供のうちは、自らに選択権のない出会いが多い。
 しかし、長ずるにつれ普通の人は、かなり自由に自己の責任
において、出会うものを選ぶことが出来るようになる。
 自分の立つ処・責任を明確にすれば、自らの出会いの選択は、
 どこまでも自由である。
 人が変わる時、出会いの選択に違いが起きる。
その理由の三つ目は
 [因・縁・果]である。
 どんなに良い「因=素質」でも、「縁=出会い」がないと「果=成果」
は 手に入らない。 一番おいしいと言われる魚沼産のコシヒカリの
種籾(因)でも、机(縁)の上に置いていたら、いつまで経っても種籾は
変化せず、おいしいいお米(果)は手に入らない。
私の「因」のランクは、上・中・下のどのあたりだろうか。
たいした因でもないような気もするが、それでも、周りに助けられ、
カラ元気と共に53歳まで生きてきた。きっと、「縁=出会い」のお陰だと
心から感謝している。
過去の出会いが現在の自分を創ったように、今、どんな出会いを選ぶ
かが明日の自分を創る。
自分はこういう人間なんだという思い込みを脱ぎ捨て、
良い出会いを求めて、
サラリと本当の自分に生まれ変わりませんか。 
    「出会いによって人は変わる」

平成12年6月

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あなたの夢はなんですか?

「大きいか小さいか」「立派か立派でないか」どうでもいいんです。
うまくいくかどうかも、あまり意味があるようには思えません。
(うまくいくことに意味があるのなら、簡単な易しいことばかりして
いればいいんですものね。)
世の中は、その人が何の為に立って生きているかよりも、
結果としてのうまくいったことを賞賛しがちである。
だから、多くの人々は自分の存在理由を生きることより
「うまくいくこと・安全な道」に焦点を
合わせがちになる。そして、安全な道に甘んじることにより、
気楽さから真剣さが失われ、そこから惰性が生じ、
いつしか自分の夢を失っていく。
うまくいくことに焦点を合わせて生きていますか?
自分の存在理由に立ち、自分の尊厳と、
自分の可能性に挑戦して生きていますか?
 他の誰でもないあなた自身が、
「心からしたいと感じたこと」は何ですか?
 そして、あなたが 「やろうと決めたこと」は?
人は
自分の夢を持ち その道を歩き続ける限り
元気一杯の日々で過ごせるような気がします。
 
平成12年5月

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我が家の先生 (パート2)

我が家には、2歳4ヶ月のオス犬「トム君」がいます。
相変わらず、いたずら三昧で迷惑の掛け通しです。
しかし、ますます我が家の中心的存在です
我が家のトム君は(体重13kg)
食欲旺盛で、いつも何かを食べたがっている
しかし、毎日同じものを決まった量しかもらえない
(トムだって、たまには好きなものを腹一杯食べたいだろう)
大好きな散歩やお出掛けも、家族の都合でしか連れて行ってもらえない
(たまには、自分の好きな時に、好きな所に行きたいだろう)
いたずらだって、見つかれば怒られ、すぐに止められる
沢山の思い通りにならない事に、包まれながらもめげずに
うれしそうに尻尾を振って
[思い通りになる瞬間を待っている]
すごい事をサラリとやっているトム君に脱帽!
平成12年4月

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我が家の先生
 
我が家には 一歳四ヶ月のオス犬「トム君」がいます
スリッパやソフアーは傷だらけ
オシッコやウンチも 所定外の所で平気でする
我々に 迷惑をかけない日はない
役立たずのトム君です
しかし 誰一人として追い出そうとする者はいない
腹が立っても あの無邪気に尻っ尾を振る姿に負けてしまう
遠い昔に 自分もそうであったような気がする
母のオッパイを飲んでいた頃 そうであったような気がする
いつから 自分はこの無邪気さを失ったんだろう
「失敗しないように」「損をしないように」と
身につけた知識やテクニックが 邪魔をするのだろうか?
今 我々はあるがままのトム君に学んでいます

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失意の彼女からの贈り物

ある日、クリスチャンでもない失恋し失意の底の彼女が、
たまたま傍らにあった聖書を何気なく開いたそうです。
そのページには、次の言葉が書いてありました。
汝自身を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ
 その日、彼女が電車に乗った時、見知らぬ隣の人に
「こんにちは」と声をかけたそうです。
隣の人は一瞬驚きながらも「こんにちは」と
挨拶を返してくれたそうです。
 その瞬間、
彼女は自分の人生が変わったことを感じたそうです。
 彼女は聖書の言葉を知らなかった訳ではないと思います。
失恋という逆境の中にいたからこそ、行動に移さずには
いられない程の深い気づきに出会ったのでしょう。
 ピンチはチャンスなんですね。
そして、どんなに素敵な「気づき」に出会っても、
実行に移して体験しなければ無意味なんですね。
 この「気づきと実行」の繰り返しの中から、
生きる枠組みが変化し、私たちの願う人生が創り出され
ていくのではないでしょうか

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彼女からの贈り物

春の気配を感ずる三月の或る日、彼女に出会った。
夕暮れ時の買い物客に混じって、彼女は横断歩道を渡っていた。
手には重そうなスーパーの買い物袋を下げていた。
肩を左右に大きく振りながら、一心に歩いていた。
前方をしっかりと見据え、
内側に折れ曲がった不自由な足を使って、一心に歩いていた。
年の頃は、25,6歳位だろうか。
なんのけれんみもなく、一心に歩く彼女の姿を見た瞬間、
私の胸の奥に変化が起きた。
私の胸の奥は、あたたかいもので一杯になり、
この先、不愉快なことに出くわしても、
怒らなくなるような気がした。
少なくとも、今までのようには怒れないだろうと思った。
障害を受け入れ、一心に生きている彼女の姿を見た瞬間、
不足を言う前に、与えられた条件の下で、
一心に生きていこうと思った。

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