メニューから選択してください。

 








   
 


第23号「暮れの一息」平成13年12月 
第22号「−の中の+に感謝」平成13年11月
第21号「55歳のスタート」平成13年10月
第20号「自己の天分への問い」平成13年9月

第19号「感謝のスタンス」平成13年8月
第18号「後悔はしない 反省はする」 平成13年7月
第17号「努力と成果の間には時間差がある」 平成13年6月
第16号「そのまんまでいいんだよ」 平成13年5月
第15号「我が家の先生 パート3」 平成13年4月
第14号「失敗はダメなもの?」 平成13年3月
第13号 「自  信」  平成13年2月
第12号「怖れへの挑戦」 平成13年1月




「暮れの一息」
 
 暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
       「 フウーッ・・・!」
                                   
 ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?
なかなか思い通りにならない、この厳しき一年を              
どれだけ、自分の心がしたいと感じた事をされましたか?
       「・・・・・・・?」
 そして、これが一番 お聞きしたい事ですが
それは、やってみて「心から好きと思える事」でしたか?
そして、それは得意と思える事であり、他の人よりうまく出来る事であり、
興味関心が湧き、問題意識が掘り下げられる事でしたか?
       「・・・・・・・?」
 思い通りにならない時だからこそ、成し遂げるには、中途半端でなく
自分のやりたい事を、きっちりと見極める必要があるのでしょうね。
それが「自己の天分のツボ」にはまる、チャンスなのでしょうか? 
「・・・・・・・?」
 
     この一年 ありがとうございました。
 
平成13年 暮れ
 
このページのトップへ戻る

 「−」の中の「+」に感謝
 
最近、記憶力が弱くなった。何かを思い出すのに一苦労する。
しかし、自分にとって大切なものと、そうでないものとが区別しやすくなった。
今まで、大切なものと一緒に、色々なものが思い出され、焦点がぼけがちであった。
記憶力が弱くなり、今の自分にとって必要な部分だけが浮き出してくる。
 
 
その一つに「あすなろ物語」がある。本編の内容は思い出せない。
あすは檜(ひのき)になろう。あすは檜になろうと一生懸命生きて、
永久に檜になれない翌檜(あすなろ)の話だけが思い出される。
頭で賢く生きようとする人間達は、実現しない夢に傷つき、自己嫌悪に陥り易い。
しかし、あすなろは落ち込まない。
天を目指して「あすは檜になろう。あすは檜になろう」と必死に生きる。
結局、死ぬまで頑張っても、あすなろは檜になれない。
しかし、木曾五木の一つに数えられ、高さ30m直径1mの巨木になる。
あすなろは死して後、建築材・船材・家具・枕木などに用いられる。
 
 
 人は夢を持った瞬間、怖れを持つ。未実現・くたびれ損への怖れである。
夢はいつも、現在の能力を超えた向こう側に存在する。
だから、夢の実現にはそれなりの努力や、限界への挑戦が要求される。
しかし、人は面白おかしく・気楽に生きたいという小我を持つ。
小我に負け、目先の面白さに自分の生き方の正当性を見出そうとする。
「そんなに努力しなくても、そこそこの幸せは手に入る」と。
「そこまで苦労しなければならないのなら、私はこのままで満足する」と。
 
 
 頑張っても踏ん張っても、どうにもならない時がある。
そんな時、永久に檜になれないあすなろのひたむきな姿が、頭にフッと浮かぶ。
記憶力の弱くなった頭が、余分なものを削ぎ落とし、
天に向かって必死に伸びようとするあすなろの鮮やかな姿を、浮かび上がらせてくれる。
 
 
 私は今、記憶力が落ちていくという「−」の中で、余分なものを削ぎ落とし、
自分にとって大切なものを、鮮やかに浮かび上がらせてくれる「+」に感謝している。
 
平成13年11月 
                           
このページのトップへ戻る

55歳のスタート
 
 私は、今年の9月13日で55才になった。
ドキッとする。
私が子供の頃の55才への感覚は、おじさんよりもおじいさんに近い感覚であった。
55年の歳月を振り返ってみて、年の経過に改めて、ドキッとする。
後悔のない溌剌とした人生でありたいと、心して来た。
お陰様で、今日までの人生に満足し、感謝している。
 しかし、これからの人生を考える上で、改善を要する事がある。
今まで、悩み・迷いの狭間で生きてきたような気がするからである。
迷う事の多さに驚く。「やるか、やらないか」「右に行くか、左に行くか」で迷う。
選択した結果に、必要以上の得する事(+)を望むからであろう。
人の迷いは、小我(貪欲・愚痴・怒り)から生じるという。
不完全な存在の我々は、心が完全に満たされる事はないと、
頭で分かっていながら、気がつくと小我の迷いの中にいる。
自分の欲深さに、我ながらあきれてしまう。
 
 55歳のスタートを切るに当たり、心に決めた事が二つある。
一つ目は、「小我のこだわりを捨て、良い加減に生きる」
 「+」だけを欲求することを手放し、「−」もあって当たり前。
 この世は「+」と「−」で、良い加減にバランスが取れている。
 人生に100%「+」の出来事もなければ、100%「−」の出来事もない。
「+」の中の「−」に注意を払い、「−」の中の「+」に感謝する。
 悩み・迷いから解放され、心安らかに生きる道は、良い加減に生きる事。
二つ目は、「本物を目指す」
 不完全性の自覚から滲み出る謙虚さを持ち、
 より以上を目指し、自分の限界へ挑戦し、天分を磨き、
 人の役に立ち喜んでもらう事を、自分の喜びとする。
「良い加減に、天分を磨く」
 55年かけて手に入れた、私にとって大切なテーマである。
この先、どれくらい実践できるか分からないが、心して生きていきたい。
                
平成13年10月

このページのトップへ戻る

自己の天分への問い
 
 私の好きな番組に、NHKの「プロジェクトX」がある。
夢の実現へ挑戦し続けた人々の実話のドラマである。毎回、挑戦者達の不撓不屈の
精神力に感動し、自分の弱さに恥ずかしさを覚えてしまう。
挑戦者達と私との違いは何か?という問いが、私の心にのしかかってくる。
 
 私は今、芳村思風先生から感性論哲学をお教え頂いている。
最近の学びで、この気にかかっていた挑戦者達の精神力の秘密を知った。
自己の天分に沿って生きる人は、強いという事をお教え頂いた。
天分のツボにはまって生きるかどうかは、人生に大きな違いを生じさせる。
「つらいことに出会った時の違い」
 ・ツボにはまっていないと「−」だけの体験で終わる。
 ・ツボにはまっていると「−」だけの体験でなく「+」にも解釈する。
「問題や悩みに対する違い」
 ・ツボにはまっていないと、気楽さを優先し、問題から逃げ回る。
 ・ツボにはまっていると、どんな問題だろうがそれを乗り超えていく事しか考えない。
  時の経過を忘れ、寝食を忘れて自己の限界へ挑戦し、実力を身につけ乗り超えていく。
 
 自己の天分の所在をつかむ事の大切さを認識すると同時に、難しさを感じる。
感性論哲学で言う、天分の所在をつかむ5つのヒントは、
  やってみて   1. 心から好きと思えるか
            2. 上手下手に関係なく、自分得意と思えるか
           3. 努力しようがしまいが、他人よりうまくできるか
           4. 興味関心が湧いてくるか
           5. 問題意識が湧いてくるか
1から5までは相互に関連し、一番強烈に感じられるものがその人の天分のツボ。
 
 こういうと話は簡単ですが・・・
世の中を見渡してみて、天分のツボにはまって生きる人は限りなく少ない。
私も30年以上税理士の仕事をさせて頂いているが、天分かどうか分からない。
分からないまま続けられたという事は、人智を超えた天の計らいなのだろうか。
どちらにしてもここまでやってきて、この仕事を大切にしたいという思いは強い。
 これから、どれだけの事が出来るか分からないが、
挑戦への原動力となる「自己の天分への問い」を発し続けて行こうと思う。
 
平成13年9月
          
 このページのトップへ戻る

感謝のスタンス
 
 自分の思い通りにならない事が、次から次へと起きてくる。
度重なる約束違反・手抜き仕事・わがままな要求・無責任・不誠実な対応等々
腹立たしい事や自尊心が傷つく事が、打ち寄せる波の如く繰り返し起きてくる。
今まで、それらに対処すべく、色々と自分の心の在り方を工夫してきた。
我が身に起きる出来事は、必要・必然・磨き砂と、言い聞かせながら踏ん張ってきた。
しかし、ここに来て少し疲れた。
今年の暑さが、私の気力を減退させたせいかも知れない。
 
 このままじゃ、この先が、結構きつい。
きっと、どこかがズレているんだろうと、自分の心に問いかけてみた。
確信はないが、一つの事に気づいた。
「感謝のスタンス」がずれていたようである。
今までの私の感謝は、恩返しというスタンスの傾向が強い。
「与えてもらったから、感謝する」というスタンスだから、
自分が人の為に何かをしてあげたら、当然に感謝される事を予定する。
そして、相手が私の思い通りの対応をしないと、面白くない。
相手の出方に一喜一憂し、私の自尊心は傷ついていたようである。
 
 少し、「感謝のスタンス」を変えようと思う。
これからは、人の役に立てた喜びに満足出来る心を、強化して行こうと思う。
相手から、感謝をして貰おうという二重取りのスタンスは手放そう。
今後は、対向車に道を譲った時、手を上げずに通り過ぎるドライバーに、
腹を立てる事は止めよう。一歩譲れた自分を偉いとほめてやろう。
人からの評価も大切だけど、自尊の心はもっと大切。
「自分はエライ!」と思える行動をし続けて行こうと思う。 
 
平成13年8月
    
このページのトップへ戻る

後悔はしない 反省はする
 
 私は以前に較べて、自責の念に駆られたり、落ち込んだりする事が少なく
なってきた。少しは年をとって見方・生き方が変わってきたせいかも知れない。
 今、何かの行動を選択する時「後悔はしない 反省はする」と、心の中でつぶやく。
失敗したり、思い通りの結果が手に入らなかった時の準備である。
 
 今までは、失敗した時、よく後悔していた。
「又、やってしまった。自分はなんてダメなんだろう」と、受け容れ難い現状を招いた自分
を責める。そして、その苦しさから逃れる為、言い訳を見つけようとする。
言い訳が見つからなくなると、自責の念に駆られ、落ち込むしかなかった。
 
 「後悔はしない」と、つぶやくようになってからは、反省をするようになった。
「なるほど、今の自分のレベルはこの程度なんだな」と、現状を静かに肯定し、
レベルアップの為に、どこを、どう改善したら良いか見つけようとする。
「失敗は後悔の為ではなく、成長のチャンス」と、捉えるようになり生きるのが楽になった。
自分が決めた事を、結果にとらわれずサラリと行なえるようになった。
 
  しかし、それでも後悔する時はある。
今までの安全な世界から、一段上の世界に首を突っ込んだ時に起きる。
自分より実力のある人や、素晴らしい成果を手にしている人の前に出ると、
一瞬、気後れし、自分の実力の無さに嫌気がさす。
一段上の世界で、自分の実力相応の処遇を受け、惨めになり、寂しさを感じる。
そんな時、安全圏で静かに生きていれば良かったのにと、後悔する。
 
 しかし、一呼吸の後、未熟さゆえの当然の事と、静かに肯定できるようにはなった。
そして、「自分は今、途上」「このレベルから歩いていくしかない」とつぶやく。
もしかしたら、一生かかっても、その優秀な人に追いつけないかも知れない。
素晴らしい成果を、手にする事が出来ないかも知れない。
それでも、せっかくの人生だから、自分流に行ける処まで行ってみようと思う。
死ぬまで完成しない途上の人間として、マイペースで磨き続けて行こうと思う。
  「後悔はしない 反省はする」と、強く念じていると
       失敗への怖れがやわらぎ、小さな勇気が湧いてくる。
 
平成13年7月

このページのトップへ戻る

努力と成果の間には時間差がある

 世の中には大別して、うまくいっている人とうまくいってない人がいる。
一流大学を優秀な成績で卒業した人がいる。私などは、足元にも及ばない。
私が考えもつかないような素敵なアイデアが、湧き上がってくる人である。
しかし、今、その人はうまくいっていない。
一方で、特別優秀ではないが努力している人がいる。
しかし、その人もうまくいっいてはいない。
「幸運は、準備と努力の結果でしかない」という格言がある。その通りだと思う。
しかし、準備と努力をしたからといって、成果に結びつくものでもない。
 
 私を振り返ってみると、今まで、自分なりに努力はしてきた。
しかし、その努力は成果に結びついたかと言うと、そうでもない。
むしろ、直接成果に結びつかなかった事の方が、多いような気がする。
しかし、一定の時間を経て、色々な形で確実に成果として現れてきた。
「努力と成果の間には時間差がある」ということに気づいた。
 
 私は、読書が大の苦手であった。以前は、一冊の本を読むのに一ヶ月もかかっていた。
読み終わっても、何が書いてあったか良く分からない。覚えてもいない。
当時の努力は、何の成果も生み出さない。疲れ果て自己嫌悪に陥るのが関の山だった。
しかし、私には夢があった。
色々な知識を身につけて「人の役に立ち、喜んでもらえる人間になりたい」
という夢があった。その夢は、いまだ、満足できる状態ではない。
しかし、読書を続けた成果として、良書悪書の見極めや、読書スピードが少し身についた。
30数年を要した些細な成果ではあるが、私はうれしい。
 
 今や、ハウツーものが大流行で、楽してうまくやりたいという指向が強い。
これでは、努力と成果の時間差に耐えられない。
努力がすぐに成果へ結びつかないからと言って、不平を言う人には耐えられない。
うまくいくかいかないかの分かれ目は、この時間差に耐えられるかどうか。
そして、時間差に耐えられるかどうかの大きなポイントは、
「他の誰でもない、あなた自身が本気でしたい!」と思えることをやっているか
どうか。
 
 平成13年6月
 
このページのトップへ戻る

「そのまんまでいいんだよ」
 今年に入って何人の方が亡くなっただろう。
「ご苦労様でした」「お世話になりました」「ありがとうございました」
読経を聞きながら、焼香をしながら、何回、つぶやいただろうか。
そして、故人と縁深き人々の嗚咽する姿に、何回、胸が詰まっただろうか。
永遠の別れの悲しさ・寂しさを痛切に感じる。                
そんな日の翌朝などは、腕立て伏せや腹筋をがむしゃらにやってしまう。  
命あるうちに何かの役に立たなければと、変に力が入ったりしてしまう。
                                  
 しかし、心のざわめきが落ち着いてくると、フッと力が抜けてくる。
自分の役立たずの部分や、いい加減なところは確かにあるが、
「まあいいか」と思えてくる。
私が今、生きているというだけで、少なくとも縁ある人を
悲しませないで済んでいる事を思うと、「まあいいか」と思えてくる。
 
 目を閉じると、私が死んだら悲しむであろう、縁ある人の顔が浮かんでくる。
「おまえなんか死んでしまえ!」と言いたい時もあるだろうが、
「本当に死んだら悲しくなるから、迷惑かけない程度に生きていろ」と、
語りかける縁ある人の顔が浮かんでくる。
 私も又、私に縁ある人の生きている事が嬉しい。
思い通りにならない事や、腹の立つ事は一杯あるが、生きていてくれる事が嬉しい。
 
 失敗の繰り返しの中、あまりのぶざまさに自分を突き放したくなる時がある。
そんな時、目を閉じ、静かに座っていると、
 
「どんなに失敗しても、どんなにぶざまであっても
 おまえが死んだら、悲しむ人がいる限り
 おまえは、そのまんまでいいんだよ・・・」
 
と、聞こえてくるような気がする。 この言葉を感じると、私は元気になる。
 
平成13年5月
 
このページのトップへ戻る

我が家の先生(パート3)

我が家には3才4ケ月(体重14kg)オス犬「トム君」がいます。
トム君は、これといった芸が出来ません。
出来るのは、「お手」「待て」「お座り」「ボール投げ」位です。
レパートリーを増やそうとしますが、新しい芸は増えていません。
毎日、いたずら三昧で世話を焼かせる一方です。
これといった芸も出来ず、役に立つこともなく生きています。
それでいて毎日元気に、小さな尻尾を振りながら、楽しそうに生きています。
うまく出来ない事や、役に立たない事なんて気にしない。
いたずらをして怒られた事も引きづらない。
いつも、その瞬間瞬間を、何か良い事はないかと探し回っている。
トム君に興味があるのは、自分の身に起きた「悪い事」ではなく、「良い事」だけ。
自分にこれから、どんな「良い事」が待ち受けているのか、その事だけ。
 
 それに引き替え、多くの人達は「良い事」ではなく、「悪い事」に注意を向け、
それを引きづり、わざわざ自分から落ち込んでしまいがち。
自己嫌悪の不愉快な世界に浸り、自信を無くしてしまう。
失敗の怖れから、「出来る事・したい事」を避けて、やる気を無くしてしまう。
 
 トム君は、利口な人間を尻目に、いつも「ご機嫌になれる事」を優先している。
人生は「良い事」も「悪い事」も半分づつ。
トム君は、不愉快な世界に浸る、損失の大きさを知っているのだろうか?
 
不愉快な世界を手放し、ご機嫌な事をサラリとやっているトム君に脱帽!
 
平成13年4月
 
このページのトップへ戻る

「失敗はダメ」なもの?

 毎日の生活の中で、色々な失敗や間違いに出会う。
繰り返し発生する失敗や間違いを、ジッと見ているとある事に気づかされる。 
誰しも失敗はいやなものではあるが、失敗を極端に忌み嫌う人がいる。
その人の頭の中は、「失敗してはいけない」「してはいけない」で一杯である。
失敗の呪縛の中で生きている為、失敗を引き寄せ実現してしまう。        
失敗を嫌がる表面的理由として、
「人に迷惑がかかる」とか「人からの信頼を失う」とかがある。
しかし失敗を忌み嫌う人を見ているともっと別の理由があるような気がする。
忌み嫌う人は、「失敗しては絶対ダメ」という視点に立っている。 
「失敗のない人生」が実在するかの如く思い込み、失敗する自分が許せない。
ダメな自分だから失敗をしたのだと、ダメな自分(短所)を責める。
わざわざ、短所という傷口に刃物を立てて、自分で自分を痛みつける。 
開いた傷口に刃物を立てるからたまったものではない。
ひどい人になると、罪滅ぼしとでも勘違いしているのか、徹底して痛みつける。
だから、痛くて辛い失敗を絶対ダメと忌み嫌う。
 
 果たして失敗はそんなにダメなものだろうか。
我々は誰しも、今日まで数知れない程の失敗を繰り返してきた。
失敗がダメなものであれば、当の昔に我々の人生は破綻をきたしている筈である。
しかし、我々は今、破綻もせずにそれなりの幸せを手に入れ生きている。
人生は10回中10回全てに成功する事を要求してはいない。
例え9回失敗しても最後の1回を成功すれば良い。
9回の失敗は最後の1回を成功させる為の学習のチャンス。
 
 失敗は「今の自分の実力」と「不足している能力」に気づくチャンス。
今の実力で、どうしたらより良く生きられるかを考えるチャンス。
しかし、あまりの無様さに、自分を突き放したくなる時がある。
それでも「自分は自分」、見捨てる訳にはいかない。
自分の無様さをジッと包み込んでいると、
いつしか、「この自分で生きて行くしかない」と思えてくる。
「失敗のない人生なんて存在しない」と改めて気づかされる。
そして、自分を許してやれた分、人に優しくなれそうな気がしてくる。
「失敗はダメなものではなく、より良く生きる為に大切なもの!」
 
平成13年3月
 
このページのトップへ戻る

自 信
 
 私は日頃、「自信がある」とか、「自信がない」とか、何気なく使っている。
うまく出来るとか、出来ないという意味として使っている。
 だから、始めての事や慣れない事、うまく出来そうもない事に出会うと、 
「自信の有無」で判断する。
自信があるから出来るとか、自信がないから出来ないとか。
自信がない事に出会うと最悪である。
やる前から失敗するんじゃないだろうかと不安になる。
頭の中は、過去の失敗体験とオーバーラップして、無様な姿をイメージしてしまう。
ますます、不安になり、出来る事も出来なくなる。
駄目な自分の所に立ち、自責の念に相殺されて、実力が発揮できない。
 
「自信」という言葉の意味を取り違えて、
今までに、どれだけの失敗や、無様な体験をしただろうか。
そんな繰り返しの中で、ようやく気づいたことがある。
 うまく出来るかどうかという「自信の有無」を離れて、
「自分をどれだけ信じてやれるか」という「自信」に立つことの大切さに気づいた。
 「この世でたった一人しかいない、かけがえのない大切な自分
  自分にしか出来ない役割を持って、この世に生を受けた自分」
 この事を思うと、どんなに無様な姿をさらそうとも、自分を信じてやるしかない。
自分を信じ、可愛がってやれるのは自分しかいない。
そう思えば思うほど、自分の中に変化が起きてくる。
 
 先ず一番は、うまくいってもいいよと、自分が「自分に許可」が出せるようになる。
    (意外にも根底に、成功したらどうしようという怖れを持っていた)
その次に、どんな事でも「なんとかなる」という気持ちが湧いてくる。
    (やる必要のある事から、逃げなくなる)
そして、努力する事が苦しくなくなり「楽しく」、なってくる。
(うまくいくに決まっているから、楽しくなる)
  
 私は、今、「自信」の無い事に、「自信」を持って取組んでいます。
そして、失敗の繰り返しの中で、
  「この秋は 雨か嵐か分からねど 今日の勤めの田の草をとる」
の心境で、ずれながらもあきらめず、コツコツと生きています。
          
平成13年2月       

このページのトップへ戻る

怖れへの挑戦
 
 私は何か行動を起こそうとする時、いつも何がしかの失敗の怖れを抱いている。
その怖れの繰り返しの中で、私の心に「三つの怖れ」がある事に気づいた。
  @くたびれ損の怖れ(頑張ってうまくいかなかったら・・・)
  A人の目の怖れ(マイナス評価・否定される・怒られる)
  B自分の目の怖れ(駄目な自分に出会う)
 
 この「三つの怖れ」が、交互に襲いかかり、いつも私の行動を躊躇させる。
しかし、この怖れに気づいて七年経った今、もう一つ気づいた事がある。
この世は、「+」と「−」とでワンセットということが分かった。
  勝ちもすれば、負けもする。
  成功もすれば、失敗もする。
  人の歴史において、ノーミスで生き続けた人はいない。
人生は「+」の出来事と「−」の出来事でバランスがとれている。
  失敗を避け、うまくいく事だけを期待するから怖れが倍加する。
当たり前と言えば当たり前、その通りである。
遅きに失した感はあるが、私にとっては嬉しい気づきであった。
 私の「三つの怖れ」に変化が生じた。
@失敗はくたびれ損ではなく、成功する為の条件不足に気づかせる為。
  A人にどう思われるかより、自分の信じる事にどれだけ集中出来るか。 
  B失敗は自責の念に駆られる為でなく、今の実力に気づく絶好のチャンス。
 
 怖れは今も、私の行動を制約するが、以前のような難物ではなくなった。
失敗を避け、気楽に生きる道を選んでも、将来への怖れが生じてくる。
夢を持ち、その道を歩き続ける事を選んでも、未実現への怖れが付きまとう。
どの道を選んでも、怖れが付きまとうのなら、逃げないで挑戦する方が面白い。
怖れを乗り越えて行くところに、自分の成長があり、道は開けてくる。
 
   他の誰でもない あなた自身が 
   心からしたいと感じたことは 何ですか?
   そして あなたが本気で やろうと決めたことは?
   人は 夢を持ち その道を歩き続ける限り
   元気一杯の日々を 過ごせるような気がします
 
平成13年1月

このページのトップへ戻る

 

中村総合会計事務所の業務案内