メニューから選択してください。

 








   
 


第47号「暮れの一息」平成15年12月
第46号「全てが自分の思い通りになったら・・・・」平成15年11月
第45号「極楽の余り風」平成15年10月
第44号「山頭火の大切なもの」平成15年9月
第43号「生き生きワクワク生きるパート2」平成15年8月
第42号「生き生きワクワク生きるには?」平成15年7月
第41号「自我の計らいを少なく、心安らかに」平成15年6月
第40号「使命を生きた人」平成15年5月
第39号「今ある幸せを感じる力」平成15年4月
第38号「ある患者さんの詩」平成15年3月
第37号「思い通りにならなくて、イヤになった時」平成15年2月

第36号「人生を素晴らしいものにするために」平成15年1月


「暮れの一息」
 

 暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
       「 フウーッ・・・!」

 ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?

 あなたは、この一年、どんなわがままをされましたか?
あなたにとって大切な人に、どんなわがままをされましたか?
       「・・・・・・・?」
 なぜ、あなたはそのわがままをされたんでしょうか?
       「・・・・・・・?」
 わがままをした時、どんな気持ちでしたか?
そして、わがままをされた人は、どんな気持ちだったでしょうか?
       「・・・・・・・?」 
 不完全な人間ですもの、わがまま無しで生きるなんて無理ですよね。
だから、わがまました後に、そっとゴメンって言えたらステキですよね。
       「・・・・・・・?」

     この一年 ありがとうございました。 

     

平成15年 暮れ


 

 

 

このページのトップへ戻る




「全てが自分の思い通りになったら・・・・」


 不完全な私達の人生は、思い通りにならないのが 当たり前だから、 「不足当然・腹八分目」を、心に強く念じながら生きてきました。 しかし、心の底ではいつも、自分の都合の良い努力でうまくいく事を願っていました。
  ないものねだりの人生ですから、つまづいたり転んだりの繰り返しです。 そんな生き方に疲れを感じだしてきた時、一つの問いに出会いました。
「全てが思い通りになったら、どうなるの?」一瞬、体が固まってしまいました。
一息ついた後、心にこびりついていた何かが、静かに剥がれ落ちていきました。
 
  全てが自分の思い通りになるという事は、究極を考えると、努力・工夫しなくても当たり前に全てうまくいく事です。もし、そんな人生が実現したとしたらどうでしょう。
成長の喜びや、生きることの喜びを感じられない、面白くもなんともない人生です。
  心の修行の為に、生まれてきた自分なのに、最も大切なものを失ってしまいます。
思い通りの人生なんてとんでもないと思った時、心の中に二つの変化が起きました。

 うまくいかないと何かのせいにして、愚痴や怒りでドロドロ引きずっていた自分が,
「うまくいかないのは、自分の何が不足しているのか?」「何をしたらうまくいくのか?」と、他の何かではなく自分に焦点を合わせるようになりました。
その結果、愚痴や怒りに振り回される事が、小さく少なくなりました。
  もう一つは、うまくいったとか、いかなかったとかの結果よりも、プロセスの瞬間瞬間をどう生きるかの方が大切で、「結果が従でプロセスが主」である事を再認識しました。
  私たちは過去や未来ではなく、現在でしか生きられないから、
「今、ここで、最善を尽くすしかない!」という事を、今更ながら痛感しました。
  今で言う「Do my best!」が、昔から言われている「随所に主となれば、立処真なり」につながってきました。

  人間ってすごいものだなあと、つくづく思い知らされます。
転びながらもあきらめずに頑張っていると、その時その時の気力・体力に応じた人生を、生き易くする智恵が絞り出されてくるんですね。
  だから,人生っていいものなんですね。

平成15年11月








このページのトップへ戻る



「極楽の余り風」


 以前、ある人に「あなたは極楽の余り風ですね」と
言われた。
その時は、言葉の響く感じで何となく分かったような気でいた。
数ヶ月経った今、その意味がもう一つ分かってきたような気がする。
「極楽」を辞書で引くと、「安楽で何の心配もない境遇」と出ていた。

  人生を何の不安もなく、平安に暮らせたら最高。
しかし、私の実際の生活は、平安と不安の間をただよう浮き草の感がする。
今まで、平安の為と言うより、不安を打ち消す為に頑張ってきたような気がする。
一つの不安をつぶすと、次の不安が湧き上がる「モグラたたきゲーム」のような人生。
 
  それでも、一つ一つ不安をつぶす合間に、瞬間、フッと力が抜ける時がある。
不安がつぶせなくても、まあいいかと「そのまんま」を受け入れられる時がある。
その時、心の中はさわやかでおだやかな風が吹いている。
この瞬間を、あの人は「極楽の余り風」と言ったのだろう。

  不安の一番の原因は、自分の外(人の評価・結果)に焦点が合っているからだと思う。
私は何か特別な事や立派な事をして、人に評価されたり結果を出す事が価値ある人生だと思っていた。だから、人にどう思われるかという事は重大事であった。
人に評価してもらう為に、自慢したり、大げさな話し方をする事さえある。
そんな時、心の中はざわめき、人の評価に依存する不安の最たる状態になる。
 
  平安に生きるには、人の評価や結果にとらわれず、自分の内(価値観)に焦点を合わせる事(人にどう思われるかでなく、自分はどうありたいか)が一番大切。
  思い通りにならなくても、まあいいかと受け入れられる時は、大抵、自分の価値観を優先した結果だと自覚している時である。

  不完全な人間のする事だもの、完全に思い通りにならなくて当たり前。
不足があっても、腹八分目に感謝する時、心は「極楽の余り風」状態になっている。
「不足当然、腹八分目の修行」を心して、極楽の余り風人生を過ごしていこうと思う。

平成15年10月






このページのトップへ戻る




「山頭火の大切なもの」


 托鉢生活をしながら、自由律の句作をした俳人「種田山頭火」の話がある。
山頭火と大山澄太さんの友情について、天声人語の筆者、辰濃和男さんが書かれている

『寒い夜、澄太さんは山頭火を訪ねた。雨戸もないぼろ小屋である。酒を酌み交わした後、泊まった。寒くて眠れない。やっと眠って、明け方目覚めると、山頭火は黙然と座禅を組んでいる。ゆがんだ柱のすき間から寒風がヤリのように入ってくる。その風を山頭火は、自分の体をびょうぶにして、徹夜で防いでいたのだ。それを知って、澄太さんは泣いた。』

 今でこそ、山頭火は世間にもてはやされている。
しかし、当時は乞食坊主・無頼の徒というイメージが強かったはず。
世間の常識になじめず、世間の評価や生活の安定を手放して生きた人である。
山頭火は、世間の人にとっては受け入れがたい変人でもあった。
その山頭火の数少ない人間関係の中に、大山澄太さんがいた。

 山頭火の酒は、おぼれやすく自制の利きにくい欲望の一つであった。
しかし、山頭火は澄太さんと飲んだ時、いつものようには酔いつぶれず、酔いの体にむち打って、静かに友をもてなした。
酒におぼれながらも、大切なものを失うまいと心した山頭火がいる。
山頭火の思いが、私の心を熱くした。しかし、私には、出来ない理由を述べる頭はあっても、夜を徹して友の為に寒風を防ぐ心は未だない。

 この世でいかに地位や財産を手にしても、死ぬ時はこの世に置いて行かねばならない。しかし、今生で「高めた心」は別である。あの世に持っていける唯一の大切なものである。
欲望の激流に翻弄されながらも、何が大切で何が大切でないかを問い続けた山頭火。
野垂れ死にするまで、世の常識にしがみつかず自分の大切なものを追い求めた山頭火。
それが、句の随所に激烈な言葉となって表現される。
 人は、その激烈な句をもてはやす。大切なものを見失わないようにと。

平成15年9月








このページのトップへ戻る



「生き生きワクワク生きるパート2」

 この1ヶ月、心の思いに沿いながら、充実した人生を味わおうと過ごしてきました。
しかし、先月あれだけはっきりと、自分の価値観を優先・選択して生きていこうと決めたのに、選択し続ける事の難しさを味わっています。
 
 今回は、何がそうさせているのか、反省の独り言です。
先ず、選択し続ける事を難しくしているのは、結果にこだわるからだと思います。
心の思いを優先した喜びだけでなく、その結果まで欲張って期待する自分がいます。
行動する前に結果を予測して、期待通りにならなさそうだと躊躇する自分がいます。
 これを乗り越える方法は、自分の選択したものをじっくりと味わい楽しむ事。
味わいが深くなればなるほど、結果への期待が薄くなるような気がします。

 又、世間体を気にして、自分で自分の思いを優先する事を邪魔します。
きっと、世間体を気にする中には、単純に人の目を気にするだけではなく、社会人としての立場から、節度を超えぬよう自戒している自分がいるのではないかと思います。 
しかし、節度を超えぬよう自戒している事に対しては、生き生きワクワクの充実感を阻害する事はないと思います。
 充実感を阻害するのは、単純に人の目や人の反応を怖れて躊躇している事だと思います。
人の反応を怖れて躊躇する一番の原因は、人が期待通りの反応を示してくれなかったら、自分の大切にしているもの・自分の正しさを否定されたと思うからでしょう。
 これを乗り越える方法は、価値観や正しさは全ての人に共通ではなく、人それぞれに違う事を受け入れ、自分の価値観や正しさを手放し、柔軟な対応を心がける事。

 結果や世間体にとらわれずに、心の思いを優先していけたらどんなに素敵でしょう。
「自分の大切なものを優先して生きてもOK!]という許可が出せたら、1日1日がどんなに自由で居心地が良い事でしょう。
 再チャレンジのテーマは、 
     「居心地一番,結果は二番、忘れてならぬ三番自戒!」

平成15年 8月








このページのトップへ戻る



「生き生きワクワク生きるには?」

 充実した人生を送るにはどうしますか?」と、問われたらどのように答えられますか?
あなたが最も生きている実感を感じる時は、どんな時でしょうか?
何が出来たら、どうなったら、私たちは生き生きワクワク生きれるのでしょうか?
 NHKの「プロジェクトX」を見ていると、その中にヒントがあるような気がします。大切なものを持ち、大切なものに沿って生きる人達の生き生きさが伝わってきます。
 
 そこで先ず、自分の大切なものを明確にする問いを投げかける事からスタートです。
「大切にしなければならないもの」ではなく、「大切にしたくなるものは?」
「自分はどうあるべきか」ではなく、「自分はどういう人間でありたいか?」
「何かをしなければならない」ではなく、「自然にしてしまう事、せずにおれない事は?」
 ここでは、頭で考えた「しなければならないもの」を価値観と勘違いしない事です。
「こうしたい!」という心の思いが、真の価値観である事を明確にする事です。

 次に、明確になった自分の大切なもの(価値観)をどれだけ優先して生きるかです。
私たちは、日々の生活の中で無数の選択をしていますが、その殆どは無意識に行われ、その中には自分の価値観に沿わないものも多く含まれます。
 自分の価値観に沿わない選択が起きるのは、その根底に自分の価値観を尊重して生きる事より、人の目やうまくいく事・ほめられる事を優先しようとするからでしょうか?
心の思いをないがしろにして、頭で考えた事を大切と錯覚してしまうからでしょうか? 
 
 不完全な私たちは、意識して選択したとしても、間違わないで生きる事は難しい。
ましてや、無意識に選択して生きている事を思うと、ゾッとしてしまいます。
 せっせとうまくいく事に焦点を合わせて生きてみても、たかが80有余年。
どんなにうまくやろうとしても、100パーセントうまくいく保証はない。
 それなら頭で考えた、うまくいく事を優先して生きるよりも、心の思いを優先して生きた方が、よっぽど生き生きワクワク生きれるような気がします。
 
 節度を超えぬよう心の思いに沿いながら充実した人生を味わっていこうと思います。
そして、縁ある人の大切にしているものを尊重出来る人間でありたいと願います。

平成15年 7月








このページのトップへ戻る



「自我の計らいを少なく、心安らかに」

 毎日、新聞・テレビ等は、欲望のままに悪事を働いた人間のニュースで溢れている。
日本人が外国人と手を組んで、ピッキング侵入や押し込み強盗を働き、同じ日本人の生命や財産を脅かしている。盗人にも盗人なりのルールがあったはず。
電車に乗れば相変わらず、周囲の迷惑顧みず携帯電話や、足を投げ出している者。
 「衣食足りて礼節を知る」と、孔子様はおっしゃいました。
衣食が足りれば足りるほど、礼節が失われ勝手気ままになっている。
自由に生きれば生きるほど、周りに迷惑をかけてしまう習性を持った私たち。
お釈迦様は、欲望のままに生きれば悪をなす事を知って、自戒する事の大切さを
説かれた。

礼節のなさに腹を立てていても何も変わらないので、私は一つの抵抗を始めました。
人に言うと笑われそうですが、食欲への自戒を始めました。
酒・タバコをやめる事が出来たのに、食べ過ぎがどうにもならない。
「きっと、あなたが死ぬ時は、食べ過ぎが原因よね」と、家内は言う。
食のコントロールを、単なるダイエットとしてとらえるのではなく、
自分の欲望に歯止めをかける、心の修行として始めました。
 
何に腹を立て、何に喜ぶかは、その人の心の感じ方・クセだと言われる。
対象となったその何かは、その人の心が感じる事によって初めて存在し、意味づけされる。
人は生まれて今日まで色々な何かに出会い感じ、その人固有の心のクセを作り上げる。このクセの内、欲望から生じたモノは自我となって「貪欲・怒り・愚痴・傲慢・猜疑・悪見」等という形で表面に現れ、苦しみや悪をなす事の根源となる。

人は心の奥に自我を持つと同時に、必ず仏性を持った善なる心を持つと言われる。
しかし、自我は人の心にこびりつき、善き事をしようとする善なる心の働きを阻害する。善なる心の働きを阻害された人達は、自我に翻弄され、苦しみ、道を見誤りやすい。
道を見誤らぬよう、心安らかに生きるには、こびりついた自我を削ぎ落とさねばならない。
それには瞑想の習慣を身につけ、無心になる訓練が避けられないような気がします。

今、自分の心が感じている事は、「自我、善なる心」どちらの働きによるものか、
一心に問いかけながら「自我の計らいを少なく、心安らかに」生きていこうと思います。

平成15年6月







このページのトップへ戻る



「使命を生きた人」

4月22日千駄ヶ谷の千日谷会堂で、松沢前会長の葬儀が厳かに執り行われた。
案内された席に座り、静かに目を閉じる。
なぜか、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が思い浮かぶ。
新刊が買えない時代に、給料の前借りをしながら買って読んだ本である。
大事に読もう、大事に読もうと言いながら、全巻を一気に読んだ本である。
最終章の最後のページを読んだ後、しばらく動けなかった事を思い出す。
 「天に意志がある。天が或る事をなさしめる為にその者を地上にくだし、
  その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召し返した。」
金も力も何もない、ないないづくしの不安な20代の衝撃的な思い出である。
 
 松沢会長は、家庭の事情で勉強が出来ない時代があった。
「何で俺は、自分の生きる道を行けないのか」と、天を仰いで泣いたと言われる。
 事情が許された時には、30歳を超えていた。
大学で勉強した事は、ほとんど忘れてしまっていたので、中央大学の専攻科に
行って、新憲法のもとで一から勉強をやり直された。
朝5時に家を出て、大学の研究室を出るのが夜の12時過ぎ。
遅れを取り戻す為、人の倍勉強された。
  2年で司法試験に合格し、名古屋の訟務検事の時代は、
手持ちの件数が常に二、三百件あり、仕事に追われて昼食は午後6時頃、晩飯は
九時、十時で、過酷の限度を超えていたそうです。
しかし、「これが今日の基礎作りになりました。」と言われる。

  「天が或る事をなさしめる為に地上にくだした。」言葉が、再度頭をよぎる。
TKC全国会の会長にご就任頂いてから、画期的な変化が幾つも起きた。
特筆すべきは、20数年運動を展開してきた書面添付制度である。
(書面添付された申告書の調査に当たっては、顧問税理士の意見を
  聞いた後でなければ、課税庁と言えども勝手に調査出来ない制度)
昨年4月に正式な法律として施行された。施行された時に、天へ召された。
  「天に意志がある。使命が終わった時、惜しげもなく天へ召し返した。」
 静かに目を閉じている頭の中を、この言葉が走り去って行った。  合掌

平成15年5月

このページのトップへ戻る



「今ある幸せを感じる力」

ますます景気が落ち込んで、本当に大変です。
高度成長の時代に、幸せを求めて、幸せになれそうなモノを必死に求め続けました。                そして、多くの人々は、それなりに欲しいものを手に入れ喜びました。                          それで、みんなが幸せになったかと言うと、「?」が付いてしまいます。                         今や不況の真っ只中。欲しいモノを手に入れるどころか、                  せっかく手に入れたモノを失う事の方が、多い時代になってしまいました。

 最近、三年前の中国西安の旅を、思い出す事が多くなりました。              西安の夕暮れ時、公園や家の軒先で、のんびりと座っている人々の顔が浮かんできます。                                                     その顔は、豊かそうには見えないが、どうしても不幸せそうには見えなかった。      あの人達と比較する事が出来ない位、私は豊かなのに、あの顔がなかなか出来ない。                                                      「求め過ぎれば辛くなり、偉くなるほど腹が立つ」を、地で生きているような時がある。
そんな時、あの人達と自分とのギャップに愕然とします。

 そんな時、毎月お便りをいただくSさんから、ぴったりのお便りをいただきました。    Sさんは、幸せに二つの種類があるとおっしゃいます。                     「外にある幸せ(手に入れる幸せ)」と「内にある幸せ(今ある幸せ)」があります。     今の世の中に不足しているとしたら、それは「手に入れる幸せ」ではなく、         「今ある幸せ」を感じる力だと思います。と言われる。                      恥ずかしながら、本当にうれしくなってしまいます。

 先月号の「ある患者さんの詩」が、オーバーラップしてしまいます。            「幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
 そして・・・・・・・・・ あらゆることを喜べるようにと命を授かった」
西安の夕暮れ時、のんびりと座っている人達は 、
きっと、豊かではないが、賢明に「今ある幸せ」を感じていたのでしょう。

 賢明であるように、そして、あらゆる事を喜べるようにと授かった命の
「今ある幸せを感じる力」を、静かに養って行こうと思います。

            平成15年4月

このページのトップへ戻る



「ある患者さんの詩」

ニューヨーク州立大学病院の壁に、ある患者さんの詩が書き残されているそうです。以前に、目にした時には、良い詩だなぁと、なんとなく読み過ごしただけでした。
数年経った今、しっかりと私の心に染み込んでくるような気がします。

大きな事を為し遂げられる為に 力を与えて欲しいと神に求めたのに
    謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった
より偉大な事が出来るようにと 健康を求めたのに
    より良き事が出来るようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに
    賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに
    得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに 
    あらゆることを喜べるようにと 命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いは全て聞き届けられた 
    神の意に添わぬ者であるにもかかわらず・・・
      
会社が倒産したり、自宅を競売にかけられた人達がいます。
成功を求め、努力したにもかかわらず、失敗を授かった人達です。
得意の絶頂から奈落の底に突き落とされた気持ちは、想像するに難くありません。
しかし、時間差はあっても、いつしか現状を受け入れ、一歩ずつ歩き始められます。
富は手放したが、何か大切なものに気づかれて、生きているように思えます。
その生き様を見ていると、選択を誤らないようにと、神経をとがらせる事よりも、
どんな時でもあきらめずに努力精進する事が、人生で何よりも大切な事だと教えられます。
「人生の哲学」の著者、渡辺二郎先生は言われる。
「忍耐強い努力と精進のみが、人生の有意義な形成を可能ならしめる。
その人間的努力のほかに、どこにも人生というものは存在しない。」

授かった命を有意義ならしめる為に、努力精進する瞬間が人生そのものなのですね。どんな時でもあきらめずに努力精進する事が、授かった命に感謝する事なのですね。       
       平成15年3月

このページのトップへ戻る



「思い通りにならなくて、イヤになった時」

人は、思い通りの人生を歩もうとして、懸命に生きる。 その人なりのベストの努力をしながら、思い通りの人生を願う。 しかし、どれだけの人が、思い通りの人生を歩んでいるだろうか?

天を目指して「あすは檜になろう。あすは檜になろう」と必死に生きて、 死ぬまで頑張っても、檜になれない翌檜(あすなろ)の話が思い出される。
翌檜は、檜にはなれなかったが、木曽五木の一つに数えられる巨木になる。
どうせ頑張っても、思い通りにはならないのだからと、
翌檜があきらめたとしたら、雑木の一つで終わったかどうかは知らない。
翌檜に運命があるとしたら、檜になれない運命である。
もし、翌檜が、檜になれない運命を承知の上で、「挑戦する強い心」を作る為に、
あえて、翌檜として生まれてきたとしたら、凄い!

人はこの世に「心(人格)を成長させる為に生まれてくる」と言われる。
「心が成長する為に必要な運命を、自分で選択して生まれてくる」と言われる。
選択した人生の途上において、当然、成功したり失敗したりという現象が生じる。
私たちが、犯しやすい間違いの一つに、この現象の意味づけ方がある。
立身出世して富や名声を得た人が成功者で、身分の低い人が失敗者。
健常者は運が良くて、障害者は運の悪い人、
(実は、人格が高い人程苦しい選択をする)。
成功したらプラス。失敗したらマイナスの現象という意味づけをしてしまう。
成功の華やかさに目がくらみ、成長する事よりも優先してしまう間違いを犯す。
成功は、成長の為の単なる一つの現象であり、人生の究極の目的ではない。
失敗も成長の為の現象であるから、マイナスではなくプラスの出来事。

思い通りにならなくて、イヤになった時、二つの事を思い出そうと思う。
イヤな事は、偶然・不運に起きたのではなく、今生の人生で必要な事を学ぶ為に、
「自分がセットした必要・必然・プラスの現象である」という事を。
どんなにイヤな事でも「自分の実力相応の問題しかセットしていない」という事を。
イヤになった時こそ、我慢・精進・自戒して、善き事をしていこうと思います


         平成15年2月

このページのトップへ戻る



「人生を素晴らしいものにするために」

昨年末、稲盛京セラ会長のお話を、お聞きする機会がありました。
人生は、運命と因果応報の法則が織りなす一枚の布を織るが如しと話されました。

『良い事があったと思えば悪い事が起こったりと、常に変転する「運命を縦糸」に、 善い事をすれば良い結果が生まれ、悪い事をすれば悪い結果が生まれるという、
「因果応報の法則を横糸」にして、人生は織り上げられる。
人生が織り上げられる時、横糸は縦糸より強く、人生を左右する力を持っている。
だから、それぞれの人が持って生まれた、運命通りの人生にはならない。
しかし、因果応報の法則の力も万能ではなく、運命の波に影響される。
運気が悪い時に、少し位の善い事をしても、
結果が相殺されて良い結果が出てこない。
運気が良い時には、少し位の悪さをしても悪くはならない。
「あんな悪い人が、なぜお金持ちになるのか」
「あの嫌われ者が、なぜあんないい思いをしているのか」
また逆に「あんなに優しくて、親切な人がどうして貧乏しているのだろう」
という事が起こってしまうから、人は因果応報の法則を信じないのです』

私の中にくすぶっていた、世の中の不公平さへの不満が一気に解消しました。
私は信じます。「目から鱗が落ちる」とは、正にこの事です。深く深く感謝です。
悪い結果に負け、ふてくされて斜に構えて生きたのでは、 せっかくの人生を、
ますます暗く辛いものにしてしまうだけ。 
悪い結果が、人生をだめにするんではないんですね。
悪い結果にどう対応するかが、人生の分かれ道なんですね。
運気が悪い時ほど、善い事を思い、善い事をする必要性がよく分かりました。

自分がどんな運命を背負って生まれてきたのかよく分からないが、
「運命」よりも「行い」が人生を左右する大切なものだという事が分かりました。
苦しい時ほど、我慢・精進・自戒して、善い事をしていこうと思います。


         平成15年1月



このページのトップへ戻る


 

中村総合会計事務所の業務案内