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第59号「暮れの一息」平成16年12月
第58号「ドングリの背比べ?」平成16年11月
第57号「人生が期待すること」平成16年10

第56号「"面白がる"ヒント」平成16年9月

第55号「あなたが欲しいものは何ですか?」平成16年8月

第54号「少しの損を覚悟すると、生き方が楽になる」平成16年7月
第53号「怒りの原点と対処法」平成16年6月
第52号「今、自分が出来る事、一所懸命!」平成16年5月
第51号「仕事と生き方の違いPART−2」平成16年4月
第50号「あなたの責任!」平成16年3月
第49号「仕事と生き方の違い」平成16年2月
第48号「面白がって自分の夢に挑戦!」平成16年1月


「暮れの一息」

 
   暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
       「 フウーッ・・・!」

 ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?

 あなたは、この一年、自分が生まれてきた意味について、何回考えられたでしょうか?
「・・・・・・・?」
 生まれてきた意味を支える、自分が大切だと思うことをいくつお持ちでしょうか?
 そして、その大切だと思うことをどれだけ実行されましたか?
「・・・・・・・?」
 出来る出来ないの怖れを超えてやり続けることが、生まれてきた意味に気づく
 絶好のチャンスのような気がします。
 簡単に出来ることよりも、簡単でないことの方に、チャンスがあるような気がします。
       「・・・・・・・?」 
 生まれてきた意味に気づき、それに沿って生きられたら素敵ですよね。
 うまくいってもいかなくても、納得できるような気がします。
       「・・・・・・・?」
どんなにうまくいかなくても、あなたがやり続けていることは何ですか?
       「・・・・・・・?」 

     この一年 ありがとうございました。

     平成16年 暮れ

 







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「ドングリの背比べ?」

  うまくいった時とうまくいかなかった時の差は、とても大きなものと思っていました。人と競って、勝った時と負けた時の差も、とても大きなものと思っていました。
 しかし、今、とても大きな差と思っていたことに疑問を感じています。

 中学生の時、私の成績はクラスで真ん中ぐらいでした。
仕方なく自分の偏差値に合った高校へ進学しました。
しかし、卒業時には、優等生賞を貰いながら全校で1番で卒業しました。
1番で卒業した理由は、あることに気づいたからです。
この学校には、同じような偏差値の生徒しかいないということに気づいたからです。
チョットの差しかないんだと気づいた時、心のありようが変わりました。
 
 私たちは就職する時、自分の偏差値に合った職種やレベルの会社に入社します。
人間関係も、自分と同じようなレベルの人との付き合いに落ち着きます。
浅瀬・中域・深海で、それぞれ棲み分けて生きる魚の棲息分布みたいなものです。
 このドングリの背比べみたいな中にあって、うまくいったとかいかなかったとか、勝ったとか負けたとかの差にどれだけの意味があるのでしょう。

 私は30数年、あることに挑戦し続けています。
頑張っても頑張っても、うまくいきません。最近は最悪の状態に落ち込んでいます。
それでも、やり続ける自分にあきれています。
 しかし、最悪の状態に落ち込んだお陰で、ある時、ハッと気づきました。
今、挑戦していることは、うまくいくいかないのレベルを超えた、私にとってどうしてもやり続けたい大切なものだということに気づきました。

 神とか宇宙のレベルで考えた時、地球上の人間は、やはり、ドングリの背比べ・・・?
どうせドングリの背比べなら、うまくいくことや勝ち負けよりも、自分が大切と思うことをやり続けていこうと思います。
 それは、きっと、生まれてきた意味に気づくチャンスなのでしょうから・・・

平成16年11月

 


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「人生が期待すること」

私は今、あることに挑戦しています。
自分なりに努力しているのですが、なかなか成果に結びつきません。
あまりの進歩のなさに、しまいには投げ出したくなります。
しかし、投げ出したら自分の大切なものを失うような気が して、それもできません。

 そんな時、ナチの強制収容所にあって生きる希望を失わず解放された後、「夜と霧」を 著作した精神科医フランクルの記事が目にとまり、書棚から探し出し読み直しました。
 『収容所の中で自由や楽しみが失われたからといって、「生きる意味」は無くなりは    しなかった。自由や楽しみ自体は、生きる意味を与えてくれるものではない。生きる意味は、人生が提起した「人生の問い」に答えた時、初めて生じてくる。生きる意味を問うのではなく、「人生が何を期待しているか」と問うだけである』と述べています。
 10数年ぶりに読み直し、この言葉の意味が以前より少し分かってきたようです。
 
 ある時、生きる意味に疑問を持った青年が、「一介の洋服屋の店員である私は、どうすれば人生を意味あるものにできるのですか」と、フランクルに質問をしました。
 フランクルは「どんな職業に就いているかは、どうでも良いことなのです。むしろ重要なことは、自分の持ち場でどれほど最善を尽くしているかだけなのです」と答えます。
 自分の持ち場で最善を尽くすことが、生きる意味を見いだす一番の方法なのでしょう。

 無期懲役の判決を受けた黒人が囚人島へ移送される際、船上で火災が発生しました。
その時、手錠を解かれた黒人は救出作業に加わり、10人もの人命を救いました。
 もし乗船前に、この黒人が「お前はこれからも生きている意味があるのか?」と尋ねられたとしたら、たぶん黒人は首を横に振らざるを得なかったでしょう。
 人生が私たちに、どのような機会をセットして問いかけているのか誰にも分かりません。

 私たちは時として、フランクルほどの過酷な体験をしないまでも、果たして生きる意味があるのだろうかと疑問を持ってしまうような出来事に遭遇します。
そんな時、人生は私に何を問いかけているのだろうと考えられたら凄いことだと思います。
 せっかくの人生ですから、人や環境に期待して一喜一憂するよりも、「人生が期待すること」に最善を尽くしていこうと思います。

  平成16年10月

 

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「面白がる」ヒント

今年度の事務所の行動テーマは、「面白がる」です。
しかし、これがなかなか難しい。空回りをしてしまいます。
面白がって仕事をしている時と、そうでない時があります。
この違いはどこにあるのだろうと考えてみました。一つの大事な事に気づきました。
 それはどうも、セルフイメージの持ち方の違いにある
ようです。
面白がって仕事をしている時は、意識・無意識を問わずセルフイメージが健全で、逆に
セルフイメージの低い時は、面白がる事よりも苦痛を感じる事が多いようです。

 セルフイメージの低い時は、失敗したらダメという思いが強いので、したい事をして
面白がるよりも、失敗しない事を最優先し、無難などうでも良い事で時間をつぶす。
・出来ない事に出会うと、やる前からあきらめたり、やり始めてもちょっとでもつまずくとすぐにあきらめる。その繰り返しの中で、ますます自分はダメ人間と強化する。
・ダメな自分だから、出来るふり・分かったふりをして、自分を良く見せようとする。
・自分で自分を傷つけているので、人の些細な言動に傷つき易い。

 セルフイメージの健全な時は、ベストを尽くしても失敗はあるものと捉え、失敗を恐れる事よりも、自分のしたい事が出来ない事を恐れる。
・出来ない事に出会っても、他の出来る事を認識出来ているので,自分を卑下しない。
・不完全で当たり前と思っているので、嘘をついてまで自分を良く見せようとは思わない。
・自分の内なる価値に焦点を合わせているので、安易な人の評価・承認を必要としない。

 セルフイメージを健全に保ち、面白がってこの一年を過ごす為に、
・「出来る・大丈夫!」とプラス言葉を常用して、ツキを呼び込む。
・得意な分野から「自分の仕事」を見つけ、組織になくてはならない存在になる。
・毎日3回、「面白がる」を心の中で真剣に念じる。

 家族や仲間が、あなたの短所を知っていながら家族として、仲間として受け入れてくれている事を思い出し、セルフイメージを健全に保持する工夫をして、真剣にこの一年「面白がる」に挑戦して下さい。

  平成16年9月


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「あなたが欲しいものは何ですか?」


人生には、目標とすべきことが二つある。
 一つ目は、自分が欲するものを手に入れること。
 二つ目は、それを楽しむこと。
(ローガン・P・スミス アメリカの作家)

 人生にとってもっとも大切なものは、その時々の何がもっとも重要な事柄であるかをよく考え、そこに全エネルギーを集中させ、その他のことは一切切り捨てること。
(利根川 進 ノーベル賞受賞者)

 おまえさんな、今、一体何が一番欲しい?あれもこれもじゃだめだよ。
命がけで欲しいものをただ一つに的を絞って言ってみな。
(作者不明・ご本人には誠に申し訳ないのですが、どうしても思い出せません)

 突然、「欲しいものをただ一つ言ってみな」と、問われたらどう答えますか?
私は、あれも欲しいこれも欲しいと、種々雑多な思いに埋もれて生活していますから、
大いに迷ってしまうことでしょう。 
 一つのものを選択するということは、他の全ての可能性を捨て去ること。
それなのに、あれも欲しいこれも欲しいと欲張ると「二兎を追う者は一兎をも得ず」の
人生を実現してしまうことになるかも知れません。

 せめて今日一日、これだけは実現したいと絞り込んでみたらどうでしょう。
1ヶ月、半年、1年、3年そして、一生という時間軸で絞り込んだらどうでしょう。
それも、たった一つと言わずに三つぐらいに絞り込めたらどうでしょう。
 重要事項の20%を実施すると80%の成果が上がるという、パレートの法則が思い出されます。この法則に従って考えますと、その人にとって重要なものの内の20%が手に入ると、その人の人生の80%が決まる訳です。

 欲しいものの20%にエネルギーを集中して、その他のことは一切切り捨てられたら
あなたの人生はどうなるでしょう。
 きっと、80%の人生を楽しめることになるのではないでしょうか?  

平成16年8月


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「少しの損を覚悟すると、生き方が楽になる」


  「労多くして益少なし」は損な生き方で、「労少なくして益多し」は得な生き方?
世の中には「楽して儲かる」という広告が、氾濫しています。
それに飛びつきだまされる被害者は、後を絶ちません。
「楽したら得。苦労したら損」という考え方が、世に蔓延しているようです。

  私もご多分にもれず、「労少なくして益多し」をベースに生きてきました。
それでもお陰様で、今日までそれなりの人生を過ごすことが出来ました。
それはそれで有り難いことですが、それでよいのかと問うと少し疑問が残ります。
心のどこかで、損をしないように損をしないようにと神経を使い、損する怖れにとらわれてきました。少なくとも等価交換で止めておきたいとする思いが、最近の私の願いである「おだやかに生きる」ことを阻害していることに気付きました。

  損する怖れを和らげる為、少しの損は仕方がないと割り切ってみたらどうでしょう。
不完全な人間同士、思い通りにならないのが当たり前と覚悟したらどうでしょう。 
損得の視点から、貸し借りの視点でとらえたらどうでしょう。
損をしたのではなく、貸しを作ったと考えたらどうでしょう。
返済されることを予定しない貸しと考えたら、ずいぶん気持ちが楽になります。
自分が損をした分、相手が喜んでくれたと考えたらますます楽しくなります。

  それでも、損することが受け容れられない時、時間軸という視点で考えてみたらどうでしょう。目先で考えるか人生の長さで考えるかは、損得に対する見方を変えてくれます。
目先で考えると、楽することは得。
人生の長さで考えると、楽することは実力がつかないので損。
どちらの時間軸で考えるかは、人生に大きな違いを生じさせます。
目先の得に惑わされず、少しの損を覚悟して生きていけたらどんなに楽でしょう。

 「小さな努力で大きな効果を期待すると、道は狭く冷たく暗くなる。
      大きな努力で小さな効果を志すと、道は広く明るく暖かくなる」と、
言われた先人の言葉が今更ながら身にしみてきます。

平成16年7月


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「怒りの原点と対処法」


  今日まで生きてきて、どれほど怒りを感じ、怒りのままに行動して、どれほど失敗してきた事でしょう。もう少し穏やかに暮らす事が出来たらどれだけうれしいでしょう。
  江戸時代の偉いお坊さんが、「嫁・姑の不仲」を例に説教をされた本を読みました。
「嫁が何をした。姑が何をした。今、何かをしたから憎いんじゃなくて、これまでの記憶が憎いんじゃろ。あんたがあんたの中の記憶を憎んでいるだけじゃないか」と、繰り返しおっしゃたそうです。この部分を読んだ時、一つの記憶が鮮明に浮かびました。
 
  私は小学4年生の夏休みに九州の田舎から、東京新宿の小学校に転校してきました。
急激な環境の変化に目が回り、何がなんだか分からず、おろおろする毎日でした。
そんな時クラスメートは、私の色黒さや、言葉なまり、動作の違いをからかいました。
ちん入者を面白半分にからかっただけなんでしょうが、私は馬鹿にされたとしか思えませんでした。田舎者のコンプレックスが、何倍にも増幅されてものすごく傷つきました。
  田舎の小学校の4年半の通信簿には、「人と争う事の出来ない,おとなしい性格」と書かれていました。1年半後に新宿の小学校を卒業する時の通信簿には、「人との争いが絶えない、乱暴な性格」と書かれていました。わずかな期間に私は、大きく変化しました。
  私の傷ついた心は、「差別される事・馬鹿にされる事」を怒りの原点にしたようです。

  怒りは目の前の出来事が原因ではなく、「過去の傷ついた体験(トラウマ)が刺激されて起きる」という教えを意識しながら、この半月過ごしてみました。
怒りの全部が全部、整理出来たわけではないですが、なるほど怒りを正当化するのに都合の良い過去の体験を持ち出して、目の前の出来事に理由付けしているようです。
それを繰り返していく内に強化され、許されない絶対のものとなっていくのでしょう。
同じ出来事に対して、人によって感じ方に差が出る理由がここにあるのでしょうか?

  怒りは目の前の出来事が原因と思ってきましたから、ずっと失敗し続けてきました。
怒りの原点が少し分かってきましたので、今、自分が出来る怒りの対処法を考えました。
問題なのは出来事や怒りそのものではなく、怒りの感情にまかせて行動してしまうことですから、当面、怒りの連鎖を断ち、怒りを静かにおさめる訓練をしていこうと思います。
  怒りの理由付けに意味や価値があるように錯覚し、執着する事を手放そうと思います。

平成16年6月









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「今、自分が出来る事、一所懸命!」

  二人の若い夫婦が、レストランの「イーストサイドカフェ」に食事に行きました。
2人は「二人がけのテーブル」に案内されて、自分たちの食事をオーダーしました。
自分たちのオーダーのほかに、奥様がもう一つ注文をしました。
  「お子様ランチを、一つ下さい」
 ディズニーランドには、完璧なお客様対応マニュアルがあります。
街中のレストラン同様、お子様ランチは、大人はオーダーできません。
 キャストは、その旨を丁寧に説明してお断りしました。
すると、2人は顔を見合わせて、複雑な残念そうな表情を浮かべました。
その表情を見てとったキャストは、他のメニューのご案内が出来るかどうか質問しました。

 すると、奥様がこんな事を言い出しました。
「実は、今日は、去年亡くなった娘の誕生日だったんです。
私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎える事が出来ませんでした。
お腹の中にいる時に、主人と3人で、ここのレストランに来て、お子様ランチを食べようねって言ってたのですが、それも果たせませんでした。
それで今日は、娘の代わりにお子様ランチを頼んであげたくって、やってまいりました。」  
 言葉に詰まったキャストは、次のように行動しました。
2人を、「4人がけの家族用テーブル」へ、ご案内しました。
そして、小さな子供さん用の椅子を持ってきました。
仲間に相談し、全員の賛成を得て、お子様ランチのオーダーを受けました。
小さな子供さん用の椅子の前のテーブルに、お子様ランチを置いて、笑顔で言いました。  「どうぞ、ご家族でゆっくりお楽しみ下さい」
 朝日新聞に取り上げられた「伝説のアドリブ」です。

 ディズニーランドの人気を物語る素敵なサービスですが、それ以上に、自分が今日まで無事に生きてきた事が当たり前でない、「有り難き命」である事を思い知らされました。
  あなたが空しく生きた「今日」は、
     「昨日」死んでいった者が、あれほど生きたいと願った「明日」
というカシコギの言葉が、ずっしりと心に届きました。
 有り難い命ですから、今、自分が出来る事を、一所懸命に生きるしかないですね!

平成16年5月






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「仕事と生き方の違いPART-2」

 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロにおけるワシントンポストに掲載された、 実際の物語を紹介します。

 退役軍人のリック62歳は、世界貿易センター内のある会社の副社長をしていました。
午前8時48分、最初の飛行機が激突した時、リックは事務所にいて通報を受けました。
直ちに彼は、ビル内の従業員全員に避難命令を出したのです。
そして、自分は拡声器を手にして階段を駆け上がり、各階から人々を避難させました。
階段の吹き抜け部分で、人々を安心させようとして声をかけているリックの姿を見た一人の友人は、「リック、君も外へ出なければダメだ」と言いました。
「全員が避難してからだ」とリックは答えました。彼はまったく平静でした。
その後、彼は本社に電話をかけ、降りて来られない人を探す為に上へ戻ると言いました。

 同じ時、リックの妻は、その事件を知りました。
しばらくして、電話がなると、それはリックでした。
「泣かないでほしい。今は同僚達を救出しなければならない」
妻は泣きじゃくりました。
「もし、僕の身に何か起きたら、君が僕の人生の全てだったという事を覚えていてほしい」 そして、電話は切れたのです・・・
 その後、分かった事ですが、ビルで働いていた彼の会社の2,700人のうち、亡くなった人は、わずか6人だったそうです。大虐殺の奇跡だと言われています。
 しかし、残された奥さんの事を思うと身に詰まされ、なんとも言いようがありません。

 リックがどれだけ奥さんを愛していたか。あの切羽詰まった状況で「君が僕の人生の全てだったという事を忘れないでほしい」と伝えた事で、痛いほど分かります。
その奥さんを悲しませるリスクを負っても、リックは同僚を救出しようとしました。
それはリックの仕事としてではなく、リックの生き方としての行動だったのでしょう。
私の知っている愛とか勇気のレベルでは、とうてい説明できるものではありません。
もっと深い所にある「絶対なるもの」をベースにした、リックの生き方だったのでしょう。
 このニュースに出会わなかったら、私は今後も「愛」とか「勇気」という言葉を、簡単に使い続けていたことでしょう。                                  合掌



平成16年4月


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「あなたの責任!」

 平成10年の春から書き始めた独り言が、50号の一つの節目を迎えました。
当初の頃は、四季に応じて書いていましたから、今年の春で丁度、満6年になります。
 今まで、どれだけこの号を書いたら止めようと思ったことでしょう。
自分の思いを書き表わせられないもどかしさに逡巡したり、人の反応にすくんだり。
それでも書き続けて、その時その時に自分が感じた心の軌跡が残りました。
未熟なりに自分の人生をなんとかしようとした足跡が残った意味は、小さくありません。

 今、今年のテーマでもある「面白がってワクワク生きる」に取り組んでいます。
先ず、行動する時の後先の順序を変えてみました。
何かを食べる時、嫌いなものから先に食べて、好きなものを最後に食べていました。
今、好きなものから食べています。食べたくなかったら無理して食べません。
何かをする時、するべき事を先にして、したい事は後からしていました。
今、したい事から先にしています。したくなかったら無理にしません。
 
 たったそれだけの事なのに、大きな変化が起きました。
朝起きると、なんだかうれしくなり、気持ちがワクワクしてきます。
やる気が起きるまで、だらだらと時間を過ごす事が無くなりました。
わがままとは似て非なる、自分らしく生きていける事のありがたさを感じています。
うまくいく事より、しているその事を喜ぶ大切さに気付きました。
大したことをする訳ではないのですが、したい事をしている自分に満足していますから、
人と比較して一喜一憂する事が少なくなりました。
そして、するべき事がいつの間にかしたい事に変わっている事に驚いています。

 ニューヨーク州立大学病院の壁に書かれた、ある患者さんの詩の一節が浮かびます。    人生を楽しもうと、あらゆるものを求めたのに、
         あらゆることを楽しめるようにと、命を授かった。

 あなたは何をしている時、ワクワクしますか?
あなたがあなたらしくワクワクして生きていけたら、どんなに素敵でしょう。
ワクワクして生きる事は、あなたがあなた自身に対する最大の責任でもあります。



平成16年3月





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「仕事と生き方の違い」


 ニュースを見ようとテレビをつけたら、新庄選手がインタビューに答えていた。 3年間の大リーグ生活を終えて、帰国したとの事。
 3年前、阪神タイガースの数億円の報酬を蹴って、たった2千万円の報酬で大リーグ入りしたのは、ついこの間の事のように思われる。
「新庄選手では、大リーグでの選手生活は無理!」
「どうせシッポを巻いて帰って来るに決まっている!」
さんざんマスコミに叩かれた本人が、大体その通りになって帰国した。
 
 大リーグ時代の新庄選手の言動は、これがプロ選手の言う事かと、腹を立てる事が多く嫌いな選手であった。「プロは、パフォーマンスでなく結果が全て!」
心のどこかで、イチロー選手の不言実行の生き方と比較していたのだろう。
 
 しかし、帰国した時のインタビューの顔を見て、ガラッと新庄選手への思いが変わった。
私だったら絶対に、あのようなさわやかな顔をしてインタビューには応じられない。
3年前にマスコミの書いた通りに、大リーグからお払い箱?になっての帰国。
その事は、隣近所の人だけでなく全国の人達が知っている。
傷心の身を引きずって、どこにも合わせる顔がないはず。
しかし、自分を叩いたマスコミに、ふてくされる事なくさわやかに応じていた。
凄いっと思うと同時に、大好きになった。

 新庄選手は、プラス思考の持ち主であろうが、それだけでは片付かないような気がする。安全にうまくいく結果より、「何か?」を優先して生きている。
 仕事と生き方(存在理由)の違いを感じた。
仕事は、必ず成果が必要。成果が出なければ仕事は無意味なものとなる。
生き方は、存在理由を生きる事に意味があり、成果に大きな意味はない。
成果という見返りより、ワクワクしながら生きる醍醐味を感じる事に意味がある。
新庄選手にとって、野球は仕事ではなく、生き方の一部なのでしょうか?
生き方を優先しているから、結果や世間体にとらわれずにさわやかなのでしょうか? 

平成16年2月





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「面白がって自分の夢に挑戦!」

 昨年は、「我慢・精進・自戒して、善き事を思い、善き事を為す」でスタートしました。日々、心に念じながら過ごしてきましたが、これがなかなか難しい。
人間は本当に、不完全な存在だということを思い知らされました。
 年の途中から、不完全な人間同士、100%思い通りにならないのは当たり前と自分に言い聞かせて、「不足当然、腹八分目に感謝して生きる」ことに切り替えました。
それでも、今ひとつ何かが欠けているような気がしていました。
 
 年末に来て、ようやく欠けているものを埋め合わせる考え方に出会いました。
その考え方を私のレベルで要約しますと、人間には二つの側面があるそうです。
一つは、不完全な人間のやることには限界があって、必ず不完全な部分がある。
二つ目は、人間には防衛本能があるから、変化に対して不安になるのは当たり前。
この二つの側面から、完全主義者と不完全主義者という二種類の人間の生き方が生じる。
 完全主義者とは、完全な人なのではなく、単に完全でないことに我慢がならない人。
上手くできなかった所ばかりを見て、悔やんだり人を責めたりして、人から嫌われる。
 不完全主義者とは、不完全な部分があることを当然と考え、上手くできなかった所より、上手くできた所を見て喜ぶ人。失敗を悔やんだり人を責めたりしないから、人間関係を壊すこともない。上手くできなかった所は、次回の改善点ととらえるから、結果を恐れず何にでも面白がって積極的に挑戦する。

 私はいつのまにか、完全主義者の罠にはまっていたようです。
早速1ヶ月間ほど、不完全主義者の生き方を試してみました。
なんだか、挑戦することが楽になり、面白くなりそうです。

 この体験から、今年のテーマは「面白がって自分の夢に挑戦!」
面白いから笑うんじゃない。笑っているから面白くなる。
努力するからうまくいくんじゃない。うまくいきそうな気がするからうまくいく。
能力があるからうまくいくんじゃない。面白がるからうまくいく。
「不満の種」より「喜びの種」を探して、面白がって自分の夢に挑戦した者の勝ち!

平成16年1月







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中村総合会計事務所の業務案内