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第83号「暮れの一息」平成18年12月
第82号「叶わぬが当たり前!」平成18年11月
第81号「可愛がられる理由」平成18年10月
第80号「克己の瞬間!」平成18年9月
第79号「執着分別からの自由」平成18年8月
第78号「人生が必要としているもの」平成18年7月
第77号「なぜ、思い通りにならないのか?」平成18年6月
第76号「まあ、仕方がないか!」平成18年5月
第75号「個人の利益を超えた 向こう側にあるもの」平成18年4月
第74号「腹八分目、いつもシンプルライフ」平成18年3月
第73号「夢の実現の為に大事な事」平成18年2月
第72号「一番好きな事を夢にする」平成18年1月




「暮れの一息」



暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
       「 フウーッ・・・!」

 ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?

 あなたはこの一年、自分をどんな風に評価してもらいたいと思いましたか?
      「・・・・・・・?」
 仕事が出来る人・信頼出来る人・優しい人etc・・・?
       「・・・・・・・?」 
 まさか、ダメな人・無責任な人・冷たい人と思ってもらおうとしませんでしたよね?
       「・・・・・・・?」
 思い通りの評価をしてもらう為に、どんな振る舞いをしてきましたか?
       「・・・・・・・?」 
その振る舞いは、あなたの真実に照らして妥当なものでしたか?
 まさか、自分以上に思われようとして、ウソをついたりしませんでしたよね?
「・・・・・・・?」

 あっという間の、この一年。
自分以上でもなく自分以下でもない「そのまんまの自分」で生きるのは、
 なかなか難しいものですね?
「・・・・・・・?」

     この一年 ありがとうございました。

               平成18年 暮れ

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「叶わぬが当たり前!」

  今までずっと、生きる上での悩み苦しみから逃れる方法を模索してきました。
私としては、もう少しの所にきているように思うのですが、ここで止めました。
凡人には解決出来ないものを、解決しようとしているような気がしたからです。

 お釈迦様は、言われます。
悩み苦しみの根源は、「思い」なのです。
自分が思い通りにしたいのに、それが叶わない事です。
「思い」を持たなければ、楽になれるでしょう。持てば持つ程、苦しみが増えるのです。
「思い」に執着するのではなく、思い通りにならない出来事を淡々と受け入れなさい。
これが結果的に一番楽で、苦しみの少ない生き方なのです。

 お釈迦様は、命がけの修行によって悟られたから、そんな事をおっしゃるのでしょう。
「思い」に振り回されて一喜一憂している私にとって、それは無理な話です。
確かに、思い通りにならない事で苦しむのは事実です。
しかし、「思い」が満たされた時の喜びは、その苦しみに充分見合うものがあります。
「思い」から喜びだけを味わい、苦しみから逃れようなんて虫のいい話だったんです。

 飯田史彦先生は、人生で起きる出来事は全て生まれる前に決まっていると言われます。
己の魂を成長させる為に必要な人生のシナリオを持って、人は生まれてくると言われます。
 確かに、どんなに努力してもどうにもならなかったり、大した努力もしていないのになんとかなったりと、選択の余地がなかったような体験が今までに沢山ありました。
 
 思い通りに事が続くと、知らず知らずのうちに思い通りになって当たり前と思う心が生じます。この当たり前と思う心が、思いが叶わぬ時、苦しみの根源となるのでしょう。
 しかし、逆説的な言い方になりますが、人生のシナリオがセットされているとしたら思い通りになる事もならぬ事も、予定通りの出来事のような気がしてきます。
「思い」が叶うのは良い事、叶わぬのは悪い事と捉えがちですが本当でしょうか?

 どちらにしても、「思い」を捨てきれない私ですから「叶わぬが当たり前」と覚悟して、喜びと苦しみを良い加減に味わっていこうと思います。
 
 平成18年11月

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「可愛がられる理由」


 我が家には、8歳10ヶ月のオス犬トム君がいます。
二人の娘が巣立った後、以前にも増して私達夫婦の大切な家族になりました。
夫婦喧嘩も、トムがいるお陰で大事にならずにすんでいます。
外で厭な事があっても、トムが尻尾を振りながらすり寄ってくると一遍に吹き飛んでしまいます。いつも、トムに助けられて感謝です。
 
 私をじっと見つめているトムを見ながら、トムの厭な事って何だろうと考えました。
いつもお腹をすかしているのに、エサを決まった時間に決まった量しかもらえない。
大好きな散歩やボール投げも、人間様の都合の良い時にしかやってもらえない。
一番辛く寂しい留守番も、人間様のご都合で突然降りかかる。
 このようにトムの人生の重要事項のほとんどが、思い通りにならないのです。
きっと、トムにも自我があり厭になる事があるはずです。

 しかし、トムがふて腐れた姿を見せる事はありません(時々、とぼける事はありますが)
ご主人様が何かおいしそうなものを食べていても、「早くくれっ!」なんて言いません。与えてもらえるまで静かに尻尾を振りながら、目の前で待っています。
それでもトムの健康の為に、あげられないものもあります。
そんな時でも、ご主人様を憎む事はありません。
「今回は、もらえないんだ!」と、くるりと背を向けて行ってしまいます。

 一番辛く寂しい留守番も、必死に懇願したのに置いてきぼりをされてしまいます。
しかし、ご主人様が帰ってくると、ちぎれんばかりに尻尾を振り飛びついてきます。
どんなに思い通りにならない中にあっても、自我に固執する事はありません。
長い人生にはこんな事もあるのだろうと、執着分別から自由になっているようです。
トムは克己心なんて意識することなく、己に打ち克っているのです。
トムは利口な人間様が出来ない事を、サラリとやっているのです。
 
 だから、いつもトムの事が頭から離れず、時間が出来たらトムが喜ぶ事をしようと思ってしまうのです。トムの無我に徹して生きる姿が、人の心を虜にしているのです。
決して、見た目の可愛さだけで可愛がられているのではないのです。
 
平成18年10月

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「克己の瞬間!」

 先月、試用期間中の女子職員が「自分らしさを失う」という理由で退職しました。
入社して2ヶ月頃、大げさに驚いたり情緒不安定な言動が目につくので注意しました。
本人としては、とても窮屈に感じた事でしょう。無責任な辞め方で去っていきました。

 豊かになった今、世の人々は自分らしく生きる事をとても大切にしています。
何となく自由で伸び伸びと生きているような、素敵なイメージがします。
しかし、行き過ぎると自己中心的で無責任な生き方にもなってしまいます。
 食べるのが精一杯の時代、自分らしく生きたら世の中は相手にしてくれませんでした。
そんな時代の方が、人間関係に思いやりがあり礼節が守られていたような気がします。
 
 そもそも自分らしさとは、個々人固有の心のクセが作り上げた自我に他ならないのです。世間では、自我に執着して本心をむき出しにして生きる人を未熟で幼稚な人と見ます。
この未熟な人は、本心でない言動はウソであり本当の自分を生きている事にはならないとして、本心をむき出しにし自我に翻弄されながら人生を送ります。

 それに反して、本心を穏やかに包み隠して泰然と生きる人がいます。
世間では、その人を円熟した人と呼び尊敬します。
円熟した人の特長は、自我に打ち克つ「克己心」を持った人と言われます。
その克己心とは、本心に関係なく演技出来る事・役者になる事だそうです。
一流の役者は、気分がすぐれない時でもイヤな相手であっても最高の演技をします。

 私はこの事が分からず、克己心は厳しい修行をしなければ身に付かないと考え地獄の訓練や山ごもり・断食等を必死でやりました。しかし、心のクセが作り出した自分に執着している限り、訓練中に変化が起きても刺激が無くなると元の自分に戻ってしまいます。
外部からの刺激によって、自分を変える事の難しさをイヤという程思い知らされました。
 
 心のクセが作り出した自分をそっと脇に置いて、ありたい自分を演じてみる。
あんなに難しかった自我が弱まり、無理なく演じている自分に驚かされます。
外部刺激と異なり、内側から自然に執着分別から自由になっていくのが実感出来ます。
    「克己は、自我を手放しありたい自分を演じる瞬間にあり!」

平成18年9月    

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「執着分別からの自由」

  前月号で、「怒りに打ち克つ忍耐強い努力と精進を人生は必要としているのでしょう」と、書きましたが、今回は、その怒りの発生源と対処法を考えました。
 家内から、「何でそんなに怒るの?」と、不思議がられる事がよくあります。
私からみると、何で腹が立たないのだろうと、逆に不思議です。
このように、ある事に対する怒りは絶対的なものではなく、人それぞれに違います。

 人は生まれてから今日まで、色々な体験を通して知らず識らずの内に、その人固有の心のクセを身につけるそうです。このことを仏教では、薫習(くんじゅう)と呼んでいます。
何に腹を立て、何に喜ぶかは、習慣で染みついた心のクセ・薫習によるのです。
古来「三つ子の魂百まで」と言われるように、一生ついて回り人生を左右します。
今、私に染みついた心のクセでは、安定した穏やかな日々を過ごす事は至難の業です。

 この心のクセを少しでも直せないものかと、色々な文献に当たって調べてみました。
頭が変になりかけながら取り敢えず分かった事は、心のクセを看視する事のようです。
「あっ、自分は今、利己心から自分に都合の良い理屈を言おうとしているな」
「あっ、自分は今、実力以上に認めて貰おうと浅ましい心が起きているな」
「あっ、自分は今、思い通りにならない事に愚痴り、腹を立てようとしているな」
このように、自分の心の感じ方のクセ(自我)を徹底して看視する事のようです。

 二つ目に大切な事は、「二念を継がず」初念だけで終わる訓練をする。
「頭にきた!」という初念が湧いた後、どのように怒鳴りつけ、どのような仕返しをしてやろうかと、二念、三念と観念が、さも正当な事のように湧いてきます。
しかし、どんなに理屈をつけても、これは単なる利己心から生じた分別なのです。
この分別に執着して振り回されぬよう、初念で止め、手放す。ここが急所中の急所です。
「三回や五回でなんとかしようとするのは無理」「百回練習し千回も鍛錬していると、初念はすっと消え自然に無我の中に入っていけるようになる」と、先達は言われる。

 自我の浄化に徹して無我の境地に達した時、何の畏れもない最高のリラックスした状態になり、潜在された真の実力が自在に発揮出来るそうです。
 執着分別からの自由を目指して、日々の瞑想を欠かさず百練千鍛精進して参ります。

平成18年8月

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「人生が必要としているもの」

  ここ数ヶ月、思い通りにならない事への対処法を色々と実践してきました。
その中でも一番効果的な対処法は、思い通りにならない事に目をつぶって穏やかにやり過ごすことでした。無常の人生を穏やかに生きる良い方法を見つけたと喜んでいました。
 しかし、日々実践し続けていて、とんでもない間違いをしている事に気付きました。

 思い通りにならない事に目をつぶったら、ダメなんです。
思い通りにならない事を捨て去ったら、人生の大半がなくなってしまいます。
思い通りになる事もならない事も、私の大切な人生の一部なのです。
穏やかに対処できる心を養う、チャンスにしなければ意味がありません。
 イヤな事に目をつぶってやり過ごしていたら、一時しのぎで何も身に付きません。
一回クリアーした事は、いつでもどこでも穏やかに対処出来るようにしたいものです。

 こんな事ばかり書いていたら、皆さんから本当にアホな奴だと思われると思います。
自分でも呆れる位、心乱さず穏やかに生きていく事が気になるのです。
 今まで、思い通りにならない事への怒りで、様々な失敗を繰り返してきました。
辛く・寂しく・惨めな体験を,イヤという程してきました。これからの人生を穏やかに過ごす事が、なによりも大事な事と考えていますからくどいのです。
 
 今日まで、多くの人々にお教え頂いたお陰で、幸せに生きる知識は充分に蓄えました。
心が平穏な時は、得た知識を活用してそれなりの幸せを手にします。
しかし、ひとたび怒りが生じると、知識なんて一遍に吹き飛んで壊れてしまいます。
「知る」事が、「出来る」レベルに達していないのです。
「出来る」レベルに達するまで、腐らず諦めずにぶつかっていくしかないのです。
 
 我が身に起きる出来事は、全て定められた運命として静かに受け入れ、自分の人生を台無しにせぬよう、他者への礼を失せぬよう、怒りに打ち克つ忍耐強い努力と精進を人生は必要としているのでしょう。
 思い通りにならぬ時、軽々に怒色を表さぬよう泰然と律して動じない心を養っていくことが、無我に徹する人生に繋がっていくのだと思います。 

平成18年7月

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「なぜ、思い通りにならないのか?」

  前月号で、「思い通りにならない人生に心が荒まぬよう、願いの2割を捨てて穏やかにやり過ごすしか仕方がない」と、一つの工夫を書きました。
 しかし、日々の中で思い通りにならない事が重なると、つい、心が荒んでしまいます。
もう少し穏やかに生きる確実な方法をと、考えている内に一つの事に思い当たりました。
 それは、「なぜ、思い通りにならないのか?」という疑問です。

 人間の心を苦しめる、3つの煩悩「三毒」と「利己心」があります。
 「三毒」  貪欲・・・自己の欲するものに飽くなく執着する心
         愚痴・・・仕方がない事を言って嘆く心
         怒り・・・自分の心に逆らうものを怒り憎む心
 「利己心」 自己の利害だけを念頭に置いて、他人の迷惑を考えない心

 「思い通りにならない」元凶は、三毒と利己心という「我欲」を持って生まれてきた私達にあった事に思い当たりました。(チョット、大げさですが・・・)
 我欲を持って生まれてきた人間同士が、各人の我欲を競って満たそうとするが故に、それぞれが思い通りにならない苦しみに遭遇する。
我欲を満たそうとすればする程苦しみ、苦しみを否定すればする程、苦しみは深くなる。
 
 今月、全国でロードショー公開される映画(主演滝田栄・松坂慶子)「不撓不屈」の主人公である飯塚会長が、生前おっしゃられていた言葉が今になってずしりと響いてきます。
「人間の最高の生き方は、日常実践の中で無我に徹する事である。
心底に本気な祈りがないから、恐怖心と利己心の混合感でいい加減に毎日を送るのです。瞑想と祈りの生活を真剣に持つのです。」

 日々、我欲にまみれて無我に徹する事の出来ない私が、今、出来る事は、思い通りにならないのが当たり前と観念し、せめて、我欲の2割に目をつぶることからでしょう。
 自分の思いに囚われて心が荒まぬよう、2割を捨てて穏やかにやり過ごしていきます。
しかし、思い通りにならないからといって、自分の思いに近づける忍耐強い努力と精進を諦めたら生きがいが消失し、骨抜きの人生になる事も肝に銘じておきます。

  平成18年6月

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「まあ、仕方がないか!」

 3月号で、5年毎に自分の夢をセットしながら生きてきた事をお伝えしました。
セットした時は無理だと思っていた事の多くが実現し、驚きと同時に深く感謝しています。 しかし、5年間努力し続けても実現しなかった夢もありました。
それは結果的に、分不相応の欲であった事を知り、
あきらめとは違う「まあ、仕方がないか!」という体感を得ました。

 現在、努力し続けてもどうにもならない一つの夢にぶつかっています。
毎日、手を抜くことなく努力し続けても、一進一退を繰り返しています。
明かりが見えてきたと思うと、すぐに暗闇の中に引き戻されます。
「こんなに頑張っているのに、どうして!」と、ふて腐れたくなる時もあります。
諦めた方が良いかも知れないと思う時もあります。
 でも、そこそこの努力で諦めていると、人生が少しづつ崩れてしまうような気がします。
今年の年末が期限でしたから、最後の一年として精一杯努力しようと思います。 
そして、精一杯努力してもダメだったら、それは分不相応の夢だったと一つの区切りをつけようと思います。5年毎のセットの効果の一つが、ここにあるような気がします。

 「成果の8割は2割の時間で達成され、残りの2割の成果は8割の時間を要する」という、パレートの法則があります。(少し自己流の解釈をしていますが・・・?)
 自分の人生を腹八分目で由とすると、8割の時間を要する2割の成果を手放す事が出来ます。完璧主義を脱して2割を捨てられたら、どんなに穏やかな人生になる事でしょう。
5年毎のセットは、捨てる2割を見つけ出す一つの方法としても機能しています。
 
 思い通りにならない人生を、どう乗り越えていくかが人生の目的と捉えた時、
腐らず諦めず自分の願いに近づける忍耐強い努力と精進は、とても意味のある事です。
 しかし、不完全な私たちが、それを完璧にやる事は難しい。
そこで、「一定期間頑張ってダメだったものは、一区切りつける。」
    「自分の願いに囚われて心が荒まぬよう、2割を捨てて穏やかにやり過ごす。」
 あきらめとは違う「まあ、仕方がないか!」の体感は、これからの人生を穏やかに生きる上で、欠かせない大切な心得のような気がします。

  平成18年5月

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「個人の利益を超えた 向こう側にあるもの」

  最近、野球に興味が無く今回のWBCも、全くと言っていい程興味はありませんでした。
しかし、WBC開催数日前のスポーツニュースを見た瞬間、私の心は変化しました。 
イチローにインタビューを終えたキャスターが、別れ際「私も見に行くようにします」とお愛想を言った瞬間、イチローが発した言葉に私の心は熱くなりました。
「世界一を決める試合ですよ!見るのが当たり前でしょう!!」
「僕は、これに(WBC)出場できる事を誇りに思っていますよ」
そして、「これに出場して、(怪我などのアクシデントに見舞われ)選手生命が終わるような事になったとしても、自分はそれまでの人間だったと思いますよ。後悔はしません!」

 イチローは小学生の時、年間360日を超える練習の日々を過ごしたそうです。
遊び盛りの時期に、自分を律して黙々と練習の日々を重ねたそうです。
「たまに遊びたくなる時もありますが、野球がうまくなりたいんです。
もっとうまくなって、プロ野球の選手になるのが僕の夢だから練習するんです。」
 尋常でない努力と精進によって才能を高め、イチローは夢を実現しました。
その高めた才能は、イチロー個人の利益の為に利用する事になんの異論もない所です。
 
 個人的利益を優先する一部の人達は、WBC出場を辞退しました。
この事は、昨今の日本の風潮が後押ししているような気がします。
WBCに出場するという事は、1日を精一杯戦い終え、体を癒し明日の戦いの準備に当てる大切な一時を、無償奉仕活動に投げ出すようなものでしょう。
 努力に努力を重ねて手に入れた現在のポジションを脅かすリスクは、極力避けたいと思うのが人情でしょう。私も同じ立場であったなら、辞退してしまうような気がします。

 イチローは私たちに、自分が努力して高めた才能を、自分の利益に役立てる喜びよりも、誰かの為に役立てる喜びがどれだけ大きいものかを教えてくれました。
 個人の利益を超えて、王監督の為、チームの為、日本の為にと、必死で頑張っている時、
イチローの心と体は「今日は、体から何かが出ていた。みんなもこれまでと違っていた」と語る程、内なるパワーが歓喜躍動し周囲に伝播していきました。
 それを観ていた私たちは、胸が熱くなり、内に潜んでいた「祖国ニッポン」を感じて、感動の渦の中に巻き込まれていきました。

平成18年4月



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「腹八分、いつも穏やかシンプルライフ」

 60歳を迎え、60歳から65歳までの人生設計を考えています。
若い頃から、実現出来る出来ないは別として、自分が心から願う夢を5年毎にセットして生きてきました。そうしながら生きてきて、60歳になった今、少し驚いています。
セットした時は、夢だったものの多くが実現して、夢でなくなっているのです。
 夢を持ち、その道を生き続ける事の大切さを改めて思い知りました。

 40歳代の頃は、完璧に実現しようと必死に頑張ったのですが、結構くたびれました。
50歳後半は、夢の実現に必死になるのではなく、自分らしく生きる事を優先しました。
しかし、40歳の頃の必死さはないのに、40歳代に負けない位の満足のいく結果でした。
この事を、キャリアとか年の功で片づけるのは、少し雑なような気がします。
この体験から、次のステップの人生設計の大事なヒントが得られるような気がします。

 今までの体験から、実現したもの・実現できなかったものを整理してみますと。
実現したものの殆どは、自分の強みに的を絞り優先順位を明確にセットしたものでした。
実現できなかったものは、大きく分けて二つあります。
 ・自分の弱みを強化して、なんとかしようと無理してセットしたもの。
 ・優先順位も不明確に、あれもこれもと盛り沢山にセットしたもの。
 5年間努力し続けても実現しなかった夢は、分不相応の欲であった事を知りました。
そして、あきらめとは違う、「まあ、仕方がないか」という言葉が心にしみてきます。

 夢の2割を手放し、腹八分を由とする事が次のステップの重要なテーマのようです。
不完全な人間が、完璧さを目指して夢を追い続けると労多くして益少なしです。
夢の2割を捨てると、その実現の為に費やしていた時間が浮きゆとりが生じます。
1.焦らずスピードを落として、スローライフを実現できます。
2.あれもこれもと盛り沢山から解放され、やる事を減らしシンプルライフを目指せます。
3.8割を由とすると、心配する必要がなくなり穏やかに過ごせます。

     60歳から65歳までの基本テーマは、
             「腹八分、いつも穏やかシンプルライフ」です。 



平成18年3月

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「夢の実現の為に大事な事」



  前号で、「一番好きな事を夢にする」をお伝えしてから、夢想空想で終わらぬよう、夢の実現の為に何が大事か考えました。そこで不思議に思っていた事に焦点を当てました。
 うまくいく人・いかない人達の中に、才能があるのにうまくいかない人、才能は普通なのにうまくいく人がいる事です。才能の有無が、絶対条件にならない事が不思議でした。

 この不思議な事をきちんと整理しようと、「心」「知力」「身体」の三つに分けて、自分自身を実験台に考えてみました。
 「心」
 以前は、動悸・赤面甚だしく、人前で話す事の出来ない内気な性格でした。
しかし、自分の意志を堂々と伝えられる人間になりたいと強く思いました。
その為、座禅道場・冷水かぶり・山籠もり・断食・地獄の訓練等様々な修行をしました。
 「知力」
 以前は、頭の出来は並。中学卒で終わりたいと本気で思った程の大の勉強嫌いでした。
しかし、人の役に立ち、喜んでもらえる人間になりたいと強く思いました。
その為、10分以上机に座り続ける訓練から初め、遂に税理士試験に合格。読書嫌いを克服する為、年間100冊の読書を課し、知力を高める為に必要な事をやり続けました。
 「身体」
 以前は、胃下垂・胃弱・座骨神経痛・腰痛・気管支等が弱く虚弱体質でした。
しかし、丈夫な身体で人生を味わいたいと強く思いました。
その為、腹筋500回・腕立て伏せ150回・スクワット150回・逆立ち等々を日課とし、その他、身体に良いと思った事を徹底して行い、体を鍛えました。

 以前の私は、平均点以下の課題をいくつか持つ、普通の人間でした。
以前のレベルから考えると、私の思いが叶えられる保証はありませんでした。
しかし、そうなりたいと強く願いました。
そして、その時その時に自分が出来る精一杯をやりました。

 夢の実現の為に大事な事は、才能の有無なんかより、夢の実現をどれだけ強く願い、必要な事をどれだけ本気でやれるかにかかっているのではないでしょうか?
 だから、一番好きな事を夢にすると良いのですね。

平成18年2月

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「一番好きな事を夢にする」


 新年を迎えて多くの人々は、充実した一年になりますようにと、今年の目標・夢を設定される事でしょう。そんな時、設定のヒントになるぴったりの言葉があります。昨年の東京国際マラソンで、日本中に感動を呼び起こしたQちゃんこと高橋尚子選手の言葉です。
 
  「暗闇の中にいても夢を持ち続けて下さい。
  1日だけの目標でも良いですから、夢を持って1日を過ごして下さい。
  24時間という時間は、誰にでも平等に与えられたチャンスの時間です。
  もう二度と来ないこの1日の時間を、精一杯充実した楽しい1日にして下さい」
 
 2年前のレースに失敗し、Qちゃんはマラソン界の頂点から一気に暗闇の中にたたき落とされました。その時から、Qちゃんの時計は止まってしまったそうです。
その因縁のレースに出場して、自力で止まった時計を動かしたかったそうです。
 オリンピック代表から外され、次々と起きる身体の故障や人間関係のトラブルに見舞われ、果ては、有名な占い師に「Qちゃんは終わった」と宣告され、どん底のどん底にたたき落とされました。

 レース数日前に、緊急記者会見を開いて、足に故障があるという発表をしました。
負けた時の、言い訳の準備をしたと思いました。そして、引退するものと思っていました。
 私は今まで、マラソンのテレビ中継は殆ど見た事がありませんでした。
そして、それまでのQちゃんの事があまり好きではありませんでした。
 しかし、今回は見ました。こんなに大きなリスクを背負いながら、あえて走ろうとするQちゃんの生き方に興味があったからです。
35km地点でスパートをかけた時、真っ暗なトンネルから走り抜けたと思いました。
39km地点を風のように颯爽と走っている姿に、神々しさを覚えました。

 Qちゃんは、暗闇の真っ只中にいても夢を捨てませんでした。
そして、夢の実現の為、体をこわすほどの猛練習に耐えました。
これは、持ち前の明るさとプラス思考のなせるワザでしょうか?
どうもそれだけでは、説明しきれないような気がします。
 きっと、一番好きな事を夢にしたからではないでしょうか?。

平成18年 1月

 


 

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