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第95号「暮れの一息」平成19年12月
第94号「何の為に生きるか!」平成19年11月
第93号「うまくいっていないのに、楽しく過ごす!」平成19年10月
第92号「最善を尽くす パート2」平成19年9月
第91号「一つの覚悟!」平成19年8月
第90号「常に 最善の選択をしていたら!」平成19年7月
第89号「第三の警告!」平成19年6月
第88号「自分を一番好きになる瞬間!」平成19年5月
第87号「有り難うのつぶやき!」平成19年4月
第86号「耳順」平成19年3月
第85号「人生の価値を決めるもの!」平成19年2月
第84号「思いを手放し、あるがままに、今、自分が出来る最善を尽くす!」平成19年1月




「暮れの一息」


     暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
      息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
      息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
           「 フウーッ・・・!」

    ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?

    あなたはこの一年、どんな時、怒りや不快さで心が乱れましたか?
           「・・・・・・・?」
 
    無礼な態度や冷たい対応をされた時ですか・・・?
           「・・・・・・・?」 
 
    自分の努力が評価されなかったり、自分の正しさが否定された時ですか?
           「・・・・・・・?」
 
    自分の不甲斐なさに唇を噛み締めた時ですか?
           「・・・・・・・?」 

   心乱れる種は尽きないようですが、
    これからもその全てにしっかり反応して、心乱していくつもりですか?
     「・・・・・・・?」

    あっという間の、この一年。
    自他への思いを程良い所で手放し、静かに呼吸を整える。
    これが人間社会で穏やかに過ごす、一つの方法でしょうか?
      「・・・・・・・?」

        この一年 ありがとうございました。

                             平成19年 暮れ



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「何の為に生きるか!」

10月初旬、小さな記事で瀬島龍三氏が9月4日にご逝去されたことを知りました。
太平洋戦争で大本営参謀。戦後はシベリアに11年間抑留。帰国後は伊藤忠会長として財界をリードし、土光臨調の委員として行政改革にも深く関与。時代の節目節目に敏腕を振るう様子は「瀬島神話」とも呼ばれ、多くの政治家、官僚、財界人が知恵を借りに足を運んだ。瀬島氏ほど人に語れぬ影を背負い、有為転変の人生を歩んだ人は少ないでしょう。

 瀬島氏の重き人生を思うと、氏をモデルとした山崎豊子氏の「不毛地帯」は避けていた小説でした。しかし、昭和史に足跡を残された氏への追悼の意を込めて静かに読み始めました。世の瀬島氏の評価は分かれる所ですが、膨大な資料や多くの関係者へのインタビュー、現地調査等々をした結果の瀬島観に、著者のフィクションではありますが脱帽です。
 最近、趣旨替えして直木賞受賞作や人気小説を読んでいて、少し辟易していた所でした。
久し振りに読み応えのある小説に出会い、良書に出会う喜びに浸りました。

 小説の中で主人公が敗戦の無念さから死を思い詰めますが、「国を敗戦の苦しみに陥れた軍参謀の責任として、何があっても生き延びて最後まで見届けろ」と、上司に厳命され国家人としての責任を果たす為に生き抜く覚悟をし、言葉に尽くせない過酷な抑留生活を堪え忍びます。いかなる状況下にあっても、自己の感情を冷静にコントロールして可能性を模索する姿に頭が下がります。

 10数年前に著名な精神科医のアウシュビッツの体験記を読み感動しました。その数年後、ある修道士の体験記に対する評論を読み、更に深く感動した事が思い出されます。
『過酷なアウシュビッツを生き延びたのは「How to Live (どのように生き延びるか)」ではなく「What to Live(何の為に生きるか)」という思いがあったからです。
老いた母より先に死んで母を悲しませたくない。愛する母の為に生き延びようと覚悟したからこそ、人としての尊厳を失わずに生き延びたのでしょう』と、評論していました。
シベリア抑留でも、アウシュビッツでも「What to Live」の思いを持たぬ多くの人達は、手段を選ばぬ生き方となり人間喪失をしていったようです。

 ミートホープ社は論外としても、森永・白い恋人・赤福の不祥事をみると、どのように儲けるかが先に立ち、何の為に会社は存在するのかという企業理念が欠落していたとしか思えません。生を受けたものとして「何の為に生きるか!」を忘れたくないものですね。

                             平成19年11月



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「うまくいっていないのに、楽しく過ごす!」



 先月は、今年一年分のイヤな出来事を総ざらいするような1ヶ月でした。
前々回の人から否定・非難された時の反応は、「相手が何をしたかではなく、自分をどれだけ受容しているかによる」とお伝えしましたが、その事の実践編の月でした。
腹を立てたり・立てさせたり、傷ついたり・傷つけたりと、公私ともに大変な月でした。

 数件のトラブルの原因は、未熟さと誤解・相性の悪さから生じていると思います。
未熟さは、謙虚にコツコツ学び続けていくしか解決の道はありません。
誤解もコミニュケーションの未熟さが一因ですが、大本は相性の悪さです。
相性が良いと理解され許される事でも、相性が悪いと誤解され非難されてしまいます。

 出来る事なら縁ある人達とは、分かり合って生きていきたいと願っています。
しかし、実践して分かった事は、理由の如何を問わず相性の悪い人とは合わないんです。どちらが良い悪いではないのです。只、只、理屈抜きに合わないのです。
一度や二度、双方が歩み寄って分かり合えたとしても、大本の相性が合っていないので、トラブルはレベルアップしてスパイラル的に繰り返されるのです。
それでも合わせようとすると、不毛な気遣いに翻弄され疲れ果ててしまうのです。
 
 人生は相性が悪くても、付き合っていかねばならない人間関係が必ずあります。
だから、自分の人生に影響の薄い人とは、サラリと縁を切り不要なストレスを消す。
縁を切る訳にいかない人とは、分かり合える許容範囲のところで付き合っていく。
人との付き合いは、相手よりも自分のレベルに負う所が大きい事を頭では分かっています。縁切り出来ない人と少しでも近づきたいですから、日々、自分のレベルアップを怠らず、成長の歩みに沿って付き合う範囲を広げる努力は惜しまないでいこうと思います。

 人との付き合いは、いつでも「こうあるべきだ」という思いを手放すところから、スタートするんですね。今回の体験がなかったら、今後も正しさを振り回し続けた事でしょう。思いを手放すと自分の正しさが弱まり、人の行為の不快さから解放されます。
思いを手放すと心が静まり、今、自分が何をしたら良いかが見えてきます。
そして、必要な事をしていると思いを手放し、現状を静かに受容している自分に気付きます。
「思いを手放し、あるがままに受容して、自分の最善を尽くす!」ですね。
「うまくいっていないのに、楽しく過ごす」もう一つのコツを掴んだようです。

                             平成19年10月

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「最善を尽くす パート2」


 前回の「あるがままに受容する」と同様に、「最善を尽くす」も言葉足らずで表面的にしか伝わっていない事を感じていますから、今回は補足版パート2です。

 最善を尽くすというと、歯を食いしばってすごい努力・精進をする事と勘違いしている人が多いようです。そう出来たら一番良いのですが、そう出来る人は多くありません。
理想の行いではなく、今、自分の出来る事をちゃんとやる事が最善を尽くす事なのです。

 例えば、千円しか持っていない人は百円寄付すればよいのです。
みんなが千円寄付するからと言って、千円を無理して寄付する必要はないのです。
無理をすると苦しいので、以後、寄付の機会を避けるようになります。
もしくは、百円なんて寄付しても仕方がないので、寄付に無関心になってしまいます。
 無理したり卑下する原因は、今の自分をあるがままに受容出来ていないからです。
百円しか寄付出来ない自分をあるがままに受容すると、サラリと百円を寄付出来るのです。「あるがままに受容する」と「最善を尽くす」は、表裏一体なのです。 
 
 問題なのは、百円の寄付をした人は、将来、千円を寄付する可能性を保有しますが、百円の寄付をバカにした人は、千円を寄付する可能性を失ってしまう事です。
百円の努力を怠らないと、人生を享受する可能性を保有しますが、百円の努力をバカにして怠ると、怠惰な時間が増殖して心身が腐り人生を享受する可能性を失ってしまいます。

 百円の努力を怠る人のもう一つの問題点は、結果を求めすぎる事です。
百円の手持ちしかないのに、百円位ではうまくいく筈ないからと努力しないのです。
今の自分はダメだから、これ以上ダメな結果がでると辛いから努力しないのです。
 人生は最善の努力をしたとしても、目指したものが全て叶う程甘いものではありません。
叶わぬ中にあっても、夢の実現を目指して、今、自分の出来る最善を尽くす所に、生きる意味があるのでしょう。
失敗しても良いのです。大事な事は、卑下しないであるがままに受容する事です。
人生を享受するには、今の自分を受容してそこからスタートするしかないのです。

 卑下したり否定する思いを手放し、今の自分をあるがままに受容して、自分の最善を尽くし、自由なカメさんを生きていこうと思います。 
 
                                平成19年9月

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「一つの覚悟!」




 今までに何回か、「あるがままに受容する」事に関して書いてきました。
しかし、あまり理解されていない事を痛感していました。
何か適切に伝える方法がないかと考えていた時、あるテレビのCMに出会いました。

 店頭に横付けしてオートバイを降りようとする若者に、用事を終えて店から出てきた初老の男性を演じる緒方拳が「オッ、いいねえ!」と言うCMです。
 自分はもう乗れる年ではない。しかし、乗れる若者に「いいねえ!」と共感する。
この一瞬が、乗れない自分を卑下することなく「あるがままに受容した」瞬間です。
乗れない自分を卑下したら、「なんだ、こんなものに乗りやがって!」という非難を若者に向けるかも知れません。しかし、非難を若者に向けているつもりが、実は自分の不甲斐なさを非難して、不愉快になっているのです。

 しかし、自責の念に翻弄されて生きてきた私達が、非難しないで生きる事は難しい。
多くの人は幼児の時から、お前はそのままではダメだから直しなさい、努力しなさいと言われ続けて、自分をあるがままに受容してはいけないと植え付けられてきました。
あるがままに受容出来ないのは、あなたの性格でも人間的欠陥でもないのです。
そのようにダメ出しして育てられ、今日まで思い違いをして生きてきたからなのです。
この事に気付くと、「あるがままではダメな自分」から脱却し易くなるでしょう。

 失敗したり、無視されたり、いい加減に扱われたり、嫌われたり等々、人から否定・非難された時の反応の大小は、自分をどれだけ受容しているかによるのです。
決して、人から否定・非難されたその行為の大小によるのではないのです。
腹を立てたり、傷ついたりするのは、人の行為によるのではなく、自分の心に歪んで蓄積されてきた「自分を否定する思いが反応している」のです。
人に否定される前に自分を否定し、人に嫌われる前に自分を嫌っているからなのです。 

 歪んだ心を植え付けられた事は、あなたの責任ではありません。
しかし、この歪んだ心を自分の運命として受け入れないのは、あなたの責任です。
そして、本気で受け入れると、歪みを正す為に何をしたら良いかが見えてくるのです。
 私は今の自分をあるがままに受容して、心を高めていこうと覚悟しています。
その為の一つの方法として、未熟さを承知しながら「所長の独り言」を書き続けています。

                                平成19年8月

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「常に 最善の選択をしていたら!」


 色々な方達とお会いしていて、最近、感じることがあります。
日々、私達は好むと好まざるとにかかわらず、選択の連続の中で生きています。
そして、選択の結果は、好ましいものだけでなく、好ましくないものも含まれます。
この選択の結果に対する反応を見ていて、考えさせられます。
自分の選択した結果なのに、自分の責任でなく他人事のような捉え方をする人がいます。

 当事務所の職員達は、お客様への記帳指導を重要な業務と位置づけています。
しかし、記帳指導をしてもきちんと記帳されないお客様がいらっしゃいます。
そういう方達の共通項は、どうも、ご自分の仕事を好きではないようです。
自分はこういう仕事をやるつもりはなかった。生活の為に仕方なくやっている。
最初は良かったが、色々大変なことが重なりイヤになった・・・等々。

 今の仕事が、自ら積極的に始めようが、やむを得ない理由で仕方なくしていようが、どちらも自分の選択です。仕方なくとか何かのせいと捉えると、踏ん張りが効きません。
やることが非常に中途半端になっていき、ますます、悪い結果を招きます。
結局、仕事だけでなく、やる必要のある事をやらない自分がイヤになっていきます。
後悔と恐れの中で、自責の念に翻弄され自分を嫌いになっていきます。

 「おもしろきなき世をおもしろく、住みなすものは心なりけり」と、喝破した高杉晋作の辞世の句が思い出されます。
おもしろくない事にふて腐れていたら、心が未成熟な大人のようなものです。
成熟した大人達は、おもしろくない事が起こるのは当たり前と覚悟しているのです。
覚悟し受け入れると、おもしろく過ごす為の工夫や選択肢が見えてくるのです。
そして、授かった有り難き命を思うと、最善を尽くそうという気力が湧いてくるのです。

 もし、あなたが常に最善の選択をしていたら、あなたの人生はどうなっているでしょう?
きっと、毎朝ワクワクして目覚め、自分が何を選択したいか分かっていて、自分がしている事を心から楽しんでいる。そして、そういう自分の事を大好きになっているでしょう。
 しかし、私達は利己心に邪魔されて、常に最善を選択し続ける事は難しいのです。
だから、せめて今の自分が出来る範囲の、最善を尽くす事位は実践したいものですね!

                                  平成19年7月

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「第三の警告!」



 人の心の中には、不安に対する安全装置がついているようです。
その不安がピークに達すると、ブレーカーが落ちるように警告を発してくれます。
チョットいい加減な私ですから、この警告には真摯に耳を傾けて生きてきました。
 
 40歳の時、一日80本吸っていたタバコを止めました。
吸っている当時は、朝起きると舌のザラつきと痰のからみに悩まされていました。
「このままではいけない」と、朝起きるたびに思っていました。
口内の不快感と喉の炎症がピークに達した時、禁煙に踏み切りました。
禁煙して一週間は、耳鳴りと手の震えに悩まされ、ニコチンの禁断症状を体験しました。その後も色々な禁断症状は続き、私の人生の中で、1,2を争う凄惨な忍耐の体験でした。

 50歳の時、体力勝負のお酒の付き合いを止めました。
深酒をした翌日は、頭がガンガンして、胃はムカムカと最悪でした。
体重も85kgを超え、動悸息切れ、高脂血症、倦怠感にさいなまれていました。
まずいと思いながら飲み続けていたある夜、とても楽しいお酒のひと時を過ごしました。
いつもはタクシーで帰るのに、とても気分が良かったので歩いて帰る事にしました。
心地良い夜風に吹かれながら半ば程歩いてきた時、深夜の路上でフッとつぶやいたのです。
「もう、いいかな・・・!」と。なぜかは分かりませんが、その瞬間に止めました。

 60歳になった今、食べ過ぎへの警告が発せられています。
子供時代の空腹の辛い体験が、トラウマとなり食べ過ぎの行動を引き起こしています。
空腹の恐怖から逃れる為に、食べ過ぎてますます自分の中に「食べられる時に食べておこう。食べなければ損をする」という、食い意地を強化してしまいます。
これから脱却するには、大盛りを止め、その後の空腹を静かに受容する事からでしょう。
タバコの時と同じように、不快な禁断症状と正面から立ち向かう時がきたようです。

 禁断症状に負けて寝たきりの老後になるか、打ち克って元気ハツラツと過ごすか!
私にとって元気である事は、自分のしたい事をしっかりやり切る為に大切な事なのです。
大好きな自分がしたい事をして、せっかくの人生を心から楽しんでいきたいのです。

                       平成19年6月

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「自分を一番好きになる瞬間!」


  自分を心から好きになれたら、なんとステキな事でしょう。
百万人の人から非難されても、自分を好きと思える気持ちに影響がなかったとしたら凄い事です。きっと、世間を騒がせている悲惨な事件が激減する事でしょう。

 あなたはどんな時、自分を好きになりますか?
思い通りに出来て、自分は良くやったなと自分を誉められる時?
立派な事をやり遂げて、人に「凄いですね」と評価された時?
これらは当然、自分を好きになりますよね。
 もしくは、うまくいかなくても、あきらめずに頑張り続けられた時?
何度失敗しても、自分を非難しないで受容できた時?
このように出来たら、うまくいかなくても自分を好きになりますよね。

 しかし、そうは言っても不安定な心を持った生身の人間です。
うまくいかないと、つい自分を非難してしまいます。
そんな時、非難したのは仕方がないと自分を責めないで、これが今の自分だとあるがままに受容出来たら、なんとステキな事でしょう。
心が温かくなり、そんな自分を好きになるしか仕方がありません。
自分を責めたら、心が冷えて自分を嫌いになり、やる気がなくなるのです。
どんなに無様でも自分を非難しないで、あるがままに受容出来た時、私が「自分を一番好きになる瞬間」なのです。
 
 イヤな事で一瞬力が抜けても、自分を見捨てないでいると、やがて心の奥がじわじわと温かくなり、よしっ、今、ここから歩いていこうという気力が湧いてくるのです。
 これまでの人生で、自分が嫌いになってしまう事はイヤという程ありましたが、自分の好きな所をコツコツと拾い集めてきたお陰で、今の自分があるような気がします。 

 授かった有り難き命を思うと、自分を見捨てる訳にはいかないのです。
命のある限り、自分を大切にして一緒に歩いていくしかないのです。
 非難しそうになったら「有り難うのつぶやき」で初念止めして、失敗を恐れずしたい事に挑戦しながら、せっかくの人生を自由に楽しんでいこうと思います。

                       平成19年5月

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「有り難うのつぶやき!」

 色々な方々から、色々な悩みの相談をお受けします。
相談をお受けしていて、悩みの根底にはいつも「非難」が居座っているような気がします。
「何でこんな事が出来ないのだ」という、他者への非難。
「こんな事ぐらい、出来なければならない」という、自分への非難。
もしくは、他者からの非難や非難されるのではないかという憶測。
自他の非難や憶測に振り回されて、自分で自分の悩みを深めているような気がします。

 よくよく考えてみますと、世の中は非難から生じる自責の念で、かなりの部分が制御される仕組みになっているのではないかと思ってしまいます。
「お母さんは、そんな悪い子を産んだ覚えはないわよ!」
「こんな成績じゃ、親御さんが悲しむぞ!」
「こんな事やってて、会社が成り立つと思っているのか!」
私達は知らず知らずの内に、非難から生じる自責の念に翻弄されながら生きています。
 
 自責の念をバネに頑張る人は、自分はダメだからもっと頑張らなければいけないという負の思いに囚われています。この負の頑張りで成果を手に入れても楽しくないので、チョット風向きが変わっただけでもイヤになり、成果を持続する事が苦しくなります。
この負の思いから脱出するには、どんなにぶざまな姿をさらそうとも、自分への非難を初念で止め、今の自分をあるがままに受容して、今、出来ることをやり続けるのが一番です。
しかし、今まで自責の念で制御されてきた習慣が、受容する事を難しくしているのです。
 
 私は今、難しいながらもあるがままに受容する、一つの方法を試行錯誤中です。
自分や他人を非難しそうになったら、「有り難う」とつぶやくのです。
有る事が当たり前と思うから、非難したくなるのです。
非難したくなるのは命があるからですが、何十億分の一のチャンスをものにして得た「有り難き命」を思うと、有る事は当たり前ではなく、有る事は難しいのです。
非難しそうになったら、有り難き命を思い「有り難う」とつぶやいてみるのです。
それでもダメなら、非難が止まるまで何十回とつぶやき続けるのです。

 この方法は、非難を初念で止め、あるがままに受容する一番の方法と思っていますから、この一ヶ月、「有り難うのつぶやき」に徹してみようと思います。
 
                       平成19年4月

 

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「耳 順」



  先月の出来事で「人も非難しないし、自分も非難しない」事が、穏やかに生きる上でどれだけ大切な事かということを学びました。
 
 先月、ある人に説教がましい事を言ってしまいました。
言った瞬間、その人に不快な顔をされ、そっぽを向かれてしまいました。
私にとって大切な人でしたから、つい、言ってしまったんです。
「そんな生き方では、人生はうまくいかないよ・・・」と。
「何でそんな事を言うの?」と、非難の冷たい視線を向けてきます。
「何とイヤな事をする人!」と、私に自責の念を起こさせようとする視線です。
しかし、私は「自分がバカだった!」と、初念止めで終わりです。

 後日、今度は私にイヤな事をした人と過ごす事になりました。
私が大切にしている事を汚した事で、非難している人です。
相手もそのことに気付いているようで、お互いぎこちない雰囲気です。
私は非難する側なのに、不快な気持ちで一杯です。
そこで、先日の非難された我が身を思い出し、お互い様と非難する事を手放しました。
手放した瞬間、心の奥が温かくなっていきます。心地よい感じです。
気がつくと、非難していた相手とほほえみながら話をしていました。

 非難しないという事は、人の為ではなく自分の為であるという事が良く分かりました。
先日の、バカな事を言った失敗のお陰で大切な事に気づきました。失敗に感謝です。
大切な事は、何度失敗しても失敗した事を非難する必要はないのです。
ノーミスで生きられる程、人生は浅くないのですから。失敗して学べばよいのです。
我が身に起きる出来事を非難しないで受容すると、心が温かくなり穏やかになるのです。

 論語に「耳順」という言葉があります。
60歳になったら、イヤな人の話を非難しないで心静かに耳を傾けなさいという教えです。
40にして惑わず、50にして天命を知り、60にして耳順と言われる年になりました。
70歳までの10年間、何が起きても非難しないで心静かに受容出来る人間になれるよう、百練千鍛精進して参ります。

                        平成19年3月



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「人生の価値を決めるもの!」



  前月号の「思いを手放し・・・」を、この一ヶ月実践してみました。
その結果、心が温かくなる理由が何なのか分かりました。
思いを手放し結果をあるがままに受容すると、自責の念が起きないから温かくなるのです。

 自責の念は、叶わぬ結果に不満を持ち、自分のふがいなさを責める事から生じます。
しかし、叶わぬ結果は、現在の自分の実力として受容するしか仕方がないのです。
何度、失敗しようが、決して自分を責めない事です。百練千鍛の人生なのですから。
自分を責めたら心が冷えて、踏ん張りが効かなくなるのです。

 エジソンは、2000回の失敗を繰り返しても、決して自分を責めませんでした。
何度失敗してもその失敗を受容し、その時、考えられる最善の手を打ち続けました。
だから、電球の発明に成功したのでしょう。エジソンが、自責の念にとらわれていたら、果たして私達は今、電球の恩恵に浴しているでしょうか。

 自責の念は、人を非難する人ほど強いようです。
自分が人を非難するように、人も自分を非難すると思うからでしょう。
そこで、自分も人も非難しない事が、自責の念から解放される一番の策と心得ました。
その為に、自分の心の動きを常に看取し、初念止めする事です。
「あっ、今、非難しようとしているな!」と、初念が起きたらここで止める事です。
人も非難しないし、自分も非難しない。だから、心が温かくなるのです。
 
人生の価値は、どれだけ人に評価されたかではなく、自分の選択した結果をどれだけ受容出来たかで決まるのではないでしょうか。
受容出来ると自責の念が生じないので、過去の失敗に対する後悔や、将来の失敗への不安がなくなり、現在を安心して過ごす事が出来るのです。
安心しているから心が温められ、自分の最善を尽くすという気力が湧いてくるのです。
失敗して良いのです。ノーミスで生きられる程、人生は浅いものではないのです。

 思いを手放し、選択した結果をあるがままに受容して、自分が出来る最善を尽くしながら「無邪気な自由人」を生きていこうと思います。

                        平成19年 2月


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「思いを手放し、あるがままに、今、自分が出来る最善を尽くす!」

  新年あけましておめでとうございます。
すこやかに新年を迎えられました事、お喜び申し上げます。
一年の計は、元旦にありと申します。皆様の一年の計は、どのようなものでしょうか。
 
 私は、「穏やかにやり過ごす」というテーマを引き続きやっていこうと思っています。
昨年実践して少し分かった事は、自分の思いは「叶わぬが当たり前」という事でした。
だから、「思い」にとらわれている限りは、穏やかに過ごせないという事が分かりました。
 
 そこで、新年にあたり自分の「思い」をもう一度整理してみました。
 一番のとらわれは、人の役に立たなければ生まれてきた甲斐がないという思いです。
それも、些細な事ではなく、立派な事で役に立たなければダメと思っています。
このままでは死ぬ時、せっかくの人生を後悔してしまいそうです。
 二番目は、人や出来事が自分の思い通りになって欲しいという思いです。
 整理してみて、自分がとんでもない「思い」にとらわれている事を実感しました。

 「思い」は、願い・目標・夢ではありますが、視点を変えると現状への「不満」であり、将来への「恐れ」です。
 そこで思いつきの事でしたが、深呼吸するように心の中の思いを吐き出してみました。
目を閉じ、「不満」と「恐れ」を静かに吐き出しました。
静かに何回も繰り返していると、いつの間にか心の奥が、じわっと温かくなってきます。

 思いを吐き出し、空になった心に入ってくるこの温かいものは何なのでしょう。
大変な病気と思っていたら、命に別条のない病気だった時の気持ちに似ているようです。
この程度の病気で良かった、本当にありがたいと思う心に似ています。
人の心は、不満・恐れを手放し、現状をあるがままに受容したら、感謝の念が自然に入ってくるようになっているのでしょう。

 この一年、多くの出来事に遭遇して、色々な思いに振り回される事でしょう。
そんな時、思いを静かに手放し、自分が出来る最善を尽くしていこうと思います。
 きっと、何度も失敗する事でしょう。百練千鍛の覚悟は出来ています。

                  平成19年1月 

 

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