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第119号「暮れの一息!」平成21年12月
第118号「幸せな人と不幸せな人の違い!」平成21年11月
第117号「出来事に振り回されずに、自分らしく自由に生きる方法!」平成21年10月
第116号「今年の夏の爽やかな習慣!」平成21年9月
第115号「怖れを克服する一つの方法!」平成21年8月
第114号「ALONE!」平成21年7月
第113号「生き苦しさを弱めるために・・・覚悟する!」平成21年6月
第112号「価値があるから大切にするのではなく・・・」平成21年5月
第111号「自分はあるがままで価値がある!?」平成21年4月
第110号「幸せの一本道!」平成21年3月
第109号「結局、最後に救ってやれるのは・・・」平成21年2月
第108号「優しくなければ 生きる資格がない!」平成21年1月




             「 暮 れ の 一 息 」
 


   暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
      息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
      息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
             「 フウーッ・・・!」

   ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?
   あなたはこの一年、どれだけ自分の中にある優しさを
   磨かれたでしょうか?
             「・・・・・・・?」
   
   困った人を見かけた時、勇気を持って一声かけられましたか?
             「・・・・・・・?」 
   
   声をかけられた人が恥ずかしそうにして、申し出を断られる事もありますよね。
   そんな時、声をかけた側もどうしてよいか分からず困りませんでしたか?
             「・・・・・・・?」
   
   でも、嬉しそうにありがとうございますといってくれた人の事を思うと、
   又、勇気を出して声をかけたくなりませんか?
             「・・・・・・・?」 

   困っている人の役に立てた時、心の奥がホンノリ温かくなりませんでしたか?
             「・・・・・・・?」

   あっという間の、この一年。
   厳しさで自分のこともままならない中、困っている人に手を差し伸べられる
   なんて素敵ですよね。人と人との間に何かが通い合うのを感じますよね。
   それが、人の本来持っている優しさを呼び覚ます瞬間なのでしょうか?
   あなたはこの一年、どれだけ心の奥をホンノリ温められましたか?
             「・・・・・・・?」

        この一年 ありがとうございました。

                                     平成21年 暮れ

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            「幸せな人と不幸せな人の違い!」
 

今の厳しい情勢の中、厳しい選択を数多く要求されてしまいます。
ああなったらどれだけ楽になるだろう。こうなったらいいのになあと誰しも願います。
願いを持った瞬間、幸せな人・不幸せな人の違いが生じてきます。
願いを実現する為に、ふさわしい努力をする人。願うだけでふさわしい努力をしない人。

 ふさわしい努力をしないと言う事は、現実に生きていないという事です。
先ず、現実をしっかり生きる為には、自分の周りの環境を整える必要があります。
そういう人の周りには質の悪い人間がいて、その質の悪い人間に同調してしまう事です。
世の中が悪い・得意先が悪い・社員が悪い等々と言い訳をし合って一歩踏み出す事をしない。ぬるま湯につかって、たった一回こっきりの人生への責任を放棄してしまう。

 ふさわしい努力をしたとしても願いが叶う程、現実社会は生易しいものではありません。
その中で、うまくいかないにもかかわらず、これで良いのだと肯定できる人が幸せな人。
それでも肯定できない時はあります。そんな時、肯定できない自分を許してあげられる事。
許してあげられるのは、どれだけ自分を好きであるかのレベルにかかっています。
自分を好きになる唯一の方法は、上手くいこうがいくまいがふさわしい努力をし続ける事。
理屈や正しさではこの人生を生き抜いてはいけないし、現実を運命として受け入れるしかないという事を分かるしかないのです。この矛盾した人生を生き抜く為には、自分が誇りに思える程のふさわしい努力をし続け、どれだけ自分を好きになれるかにかかっているのだと思います。 
 この世に生まれてきた大きな目的のひとつに、自分の心を高める事があります。
上手くいくかどうかに大きな意味はなく、上手くいかない事から自分の心をどう高めていくかが重要なのです。ふさわしい努力をしても上手くいかずに途方に暮れた時、『神様は、その人が乗り越えられる試練しかお与えにならない』という言葉がある事を忘れてはなりませんね。上手くいった時は、その事におごることなくありがたく受け入れ、上手くいかなかった時は、上手くできなかった自分のレベルを素直に受け入れ、逃げず立ち止まらず努力をし続ける。

 不幸せな人の特徴はプロセスより結果重視で、ズルをしてでも手に入れさえすればよい。
実現しないと思えばやる前にあきらめる。『最も楽しい事は自分を超える事』という言葉がありますが、昨日の自分を超える喜びを知らないまま折角の人生を終えてしまうのでしょうか。
幸せな人は、願いの実現も大事ですが、ベストを尽くしてどのように実現するかを大事にしています。結果よりも、自分を肯定し誇りに思える生き方を常に選択しようとしています。
                                         平成21年11月

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  「出来事に振り回されずに、自分らしく自由に生きる方法
!」 


今、面白い事を学んでいます。
ハワイの人間州宝となった伝統医療のスペシャリスト
故モナ・ナラマク・シメオナがインスピレーションを得て開発した、「ホ・オポノポノ」という問題解決の方法です。

 要点をまとめますと、わが身に起きる出来事は全て潜在意識の中の過去の記憶が再生されて現在に投影されているに過ぎず、悩みや苦しみは自分の過去の記憶のせいなのだそうです。
ホ・オポノポノはそういった潜在意識の中で毎秒顕在意識の100万倍立ち上がる過去の記憶を消去し、神聖なる知能と一体化する方法なのです。 無になると神聖なる知能からのインスピレーションが降りてきて、人間本来の姿・役割が全う出来るようになると言うのです。
日本人に身近な仏教の教えや、座禅・瞑想の「無心・悟り」に通じていると思いました。

 人間は本来悟った存在なのですから、本当は神聖なる知能の声が常に聞こえている筈です。
しかし、潜在意識のさまざまな記憶にとらわれているので、その声が聞こえないのです。
モナには、これが常に聞こえていますから、何も疑うことなく神聖なる知能の言う通りにしていたのです。そしてこれは誰にでも出来る筈ですから、神父やお坊さん・教祖のような介在者は必要ないのです。神聖なる知能からインスピレーションが降りてくると、記憶に惑わされずに本来の生き方が出来るようになり、病気や悩み苦しみから解放され、悟りの境地で生きる事が出来るというのです。ニュートンはこれで万有引力の法則を発見したのかもしれませんね。

 出来事に意味はないのです。自分の中にある記憶が出来事に反応し、悩み苦しみとして現れるのです。悩みや苦しみの原因は、そのように捉えた自分の責任で誰のせいでもないのです。
悩み苦しみから解放されたければ、それを作り出している自分の中の記憶を消去すればよいのです。無(プラスマイナスに振れた心をゼロにリセットする事)の状態になれるよう一瞬一瞬浄化し続ければ良いのです。人生の目的は、記憶を浄化して執着を手放し自由になる事。
自分を犠牲にしてまで守るべきものは存在しないのですから、自分のしたい事を自由にウソをつかずに本音で生きる事。生きる価値は自分を愛するだけで十分なのでしょうから・・・

 過去の記憶を浄化する方法は、「今、起きている問題の記憶を浄化します」と言った後、
「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」と、唱えれば良いのです。
今、起きている問題の原因が分からなくても、その問題に対して淡々と唱えれば良いのです。
コンピューターのデーターを消去する時に、感情などを込めずに消去キーを押すようにです。
悟れないまでも過去の記憶を浄化し続け、あるがままに楽しんで生きたいものですね。
                                      平成21年 10月

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         「今年の夏の爽やかな習慣
! 」 


  今、私の一番の関心事は、いかに体重を落とすか、いかに食べすぎないかという事です。
食事する度に、今度こそ食べる量を減らそう。腹八分目で止めようと自分に言い聞かせます。
そして、食べ終わった後、食べ過ぎてしまった事を後悔するのです。
これを毎回繰り返しているのです。

 私が体重を落としたいのは、スタイルの問題というより、体調や健康面を考えての事です。73キロ前後になると、多少ハードに動いても疲れが少なくスタミナ充分という感じです。
80キロ前後になると、疲れやすく慢性疲労の感があります。
10キロ前後の荷物を一日中背負って動き回っているようなものですから、当然ですよね。
次のステップの70歳台を元気一杯に過ごす為には、体重を落とす必要があるのです。

 今までも自分の身体を大事にしてきました。健康でいる大切さを痛烈に感じているからです。
病弱だと行きたい所にいけず、大好きなゴルフも楽しめません。爽やかな朝の目覚めも期待できません。美味しいものを食べても美味しさを感じる事が出来ないでしょう。
今の自分は、何を食べても美味しく食べられます。それが、体重増加の原因なのですが・・・
体調を整え、「一回こっきりの人生を悔いのないよう生き切りたい!」と願っています。

 50歳の時に鍛え直そうとして、毎朝40分のトレーニングを続けて13年になります。
腹筋・背筋・腕立て伏せ・スクワット・ストレッチ等々。
昨年の春までは、毎朝、腹筋を千回やっていました。しかし、体重は中々落ちません。
糖尿病予備軍に属している私の課題は、体重を75キロ以下に抑える事です。
体重が落ちない理由は、何を食べても美味しく腹一杯食べてしまうからなのです。
毎朝のトレーニングをしても、体重は徐々に増えて80キロ近くになってしまいました。
80キロを超えると落とそうとしても中々落ちないのです。
今までのやり方ではダメだと分かりました。そこで、どうしたら一番効果的か考えました。

 今年の夏から、真夏のゴルフをやめ1時間弱の散歩を毎朝のトレーニングに追加しました。
これが意外と良いのです。全身に血液やリンパ液が駆け巡って、体の内部から活性化されているようで中々グッドです。食べる量もそれなりで、75キロ前後を維持できています。
朝の爽やかな風の中、B’zを聴きながら、公園の中を颯爽と歩く快感を味わっています。

                                 平成21年 9月

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         「怖 れ を 克 服 す る 一 つ の 方 法 ! 」
 


  昨日よりも今日が、今日よりも明日がうまくいくと心から思える人が何人いる事でしょう。
今日はうまくいったが明日はどうだろうかと、怖れを持つ人が多いのではないでしょうか。
人間関係に至っては心の底に、他人から拒絶される怖れ・裏切られる怖れ・嫌われる怖れを大なり小なり感じながら生きているのではないでしょうか?

 この怖れを最初に感じるのは、幼少の頃の親の接し方による影響が大きいのだと思います。
そういう意味で私達にとって人生最初の運不運は、どんな親の元に生まれたかでしょう。
愛情豊かな親に育てられた子は、怖れ体験が少なく自分の存在を肯定的に捉え易い。接し方の下手な親に育てられた子は、愛情飢餓感から自分の存在を否定的に捉え怖れ体験を多く味わう。
今更、どんな親元に生まれたかという事はどうにもなりません。私達がやる事は、植え付けられた怖れを一生を賭けてどう克服するかという事です。その為に先ず認識する事は、私達が持つ怖れは過去の体験から自分が勝手に作り出した妄想で、その8割は実現しないという事です。

 親から否定された体験を持つ人は、人と接する時、無意識に嫌われない行動をとってしまう。嫌われない為に自分がしたくない事でも相手にしてあげる。してあげる度に、自分はそうしないと嫌われる存在なのだと怖れを強化してしまう。その事に苦しくなると怖れが怒りに変わり、今度はわざと嫌われるような行動をとって、どこまでやったら相手から嫌われるかを試し、怖れがピークに達すると決定的行動をとって、自分から嫌われてやったのだと自分を守る。
怖れから自分を守る行動をすればする程、自分が嫌われる存在だという怖れを強化していく。

 怖れを克服する一つの方法は、自分を守る行動をやめそのままの自分で普通にいる事です。
嫌われない為に自分のしたくない事はしない。自分を価値のないダメ人間だと感じたら、自慢したり嘘をついてまで認められようとしない。思い通りにならない事で怒りが生じたら、怒りで怖れを誤魔化さない。怖れを感じたら自分を守る行動をやめて立ち止まり、その怖れを静かに見つめる事です。最初は辛いでしょうがどの程度の怖れなのか見極めると怖れは次第に弱まり消えていく筈です。禁煙した時、タバコなしでは絶対無理という怖れが何度も湧き上がりましたが、禁断症状を耐え抜くとウソの様にタバコがなくても平気になった事を思い出します。
 
 それほどうまくいっていないのに、平気で生きている人がいる。
それほどみんなから好かれていないのに、毎日、自分のしたいことをして楽しんでいる。
タバコがなくても生きていけるように、うまくいかなくても・人から好かれなくても平気だと思えたら、怖れを手放しそのままの自分で普通にいられたらなんと素敵な事でしょう。 

                                    平成21年 8月

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               「 ALONE! 」


 今年の正月号で、「あなたはこの曲を聴いたら・あのドラマを観たら、涙が出てしまう!」「あなたはこれさえあれば踏ん張れる!」というものをお持ちですか?と問いかけました。
 先月、ある出来事の中で、B’zの『Alone』という曲を聴きました。聴いている時、心の中に何かが響き渡りました。それも、メインの日本語歌詞の部分ではなく、サブの英語バージョンのたった2行の歌詞に心が揺さぶられていました。

        I was born to fall in love
        You know, We’ve all alone
(私は愛するために生まれてきた。私達がみんな孤独だという事をあなたは知っている)
       
 人は皆、孤独で寂しい存在なのです。
 寂しさから救われる唯一の道は、人を愛する事。人と繋がる事。
 ウサギは寂しいと生きていけないと言われますが、人もそうなのです。
 孤独で寂しいと、生きていく意味が見つけられないから、踏ん張れないのです。
 人を愛するために生まれてきた私達ですから、誰かを愛した瞬間、孤独から救われるのです。
 誰かを愛する事で生きる意味を見つけ、自分は生きていて良いのだと思えるのだと思います。
  
 今、丁度、次女が出産して新しい命とともに我が家で暮らしています。母子の触れ合う様を見ていると、まさに母はこの世でたった一つの愛する命に出会い、新しい生きる意味を見つけ、持って生まれた母なる母としての花を咲かそうとしている事がヒシヒシと伝わってきます。
 
 Aloneに出会う前は、私が辛くて寂しくて参った時、私を救ってくれる曲はベッド・ミドラーの『Rose』でした。今まで、この曲にどれだけ救われた事でしょう。
 今、私のソウルソングに大きなものが加わりました。
 このAloneは、一ヶ月足らずで何百回聴いた事でしょう。何百回聴いて飽きるどころか、ますます私の心の中に響き渡り、寂しさに耐える勇気を与えてくれます。寂しさを埋める為ではなく、お互いを高め合う出会いを大切にしたいと強く念じさせてくれます。

    孤独で寂しい僕らは、それぞれの花を抱いて生まれてきたのです。
    一人ぼっちでは咲ききらず、しぼんでしまうのです。
    抱いて生まれた花を咲かせ合える人と、巡り逢う為に生まれてきたのです。 

                                   平成21年7月

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「 生 き 苦 し さ を 弱 め る 為 に ・・・ 覚 悟 す る ! 」



 毎日が良い事ばかり続いたら嬉しいし、そのための努力も惜しみません。
しかし、良い事ばかりは続かない。それも順調にいっている時に、突然、悪い事が起きてくる。
それなりの努力もし、配慮もしてきただけにがっかりします。
うまくいかない事があるのが当たり前なのに、ひとつふたつ良い事があると調子に乗って、良い事が続くという当たり前でない事を求めて、生き苦しさをより強くしてしまいます。

 人生は良い事と悪い事がワンセットで出来ているのですから、良い時は良い時なりに、悪い時は悪い時なりに生きていくしかないのに、つい、忘れてしまうのですね。
うまくいかない事に落ち込んでしまうのは仕方がないとしても、その後で必ず、その事を丁寧に見つめる事ですね。起きた出来事を丁寧に見るという事は、自分を見つめるという事。
自分を見つめるという事は、自分のクセに気付く事。自分のクセに気付くと、生き苦しさを弱める可能性が広がります。だからと言って、全部が全部気付けなくても良いのです。気付く時もあれば、気付けない時もあって良いのだと思う事です。

 この事が分からないと、生き苦しさが強くなっていくのは当たり前の事ですね。
どうせなら、うまくいったとかいかなかったとかは二の次にして、今、自分がしたいと思う事
を自由に出来たらグッドですね。いい人を演じたり、肩書きや地位に縛られて生きるのではなく、自分らしく自分のしたいことを優先して生きていく。大切な人や縁ある人への配慮をした上で、自分の人生を自由に愉しむ許可が出せたら、どんなに生き苦しさが弱まる事でしょう。
その為に「今、タバコを吸っても良いですか?」という類の質問をする事は大切な事ですね。

 そして、当たり前の事を当たり前と受け入れられたら、どれだけ生き易い事でしょう。
私が飽きもせず独り言を書き続けているのは、少しでも生き易いようにする為なのでしょう。
しかし、分かったような事を書いていながら、当たり前の事で腹を立てたり落ち込んだりするのです。人間って本当に面白いものですね。当たり前の事を当たり前と思えなくなる時があるのですね。当たり前の事を当たり前と思うには、真剣に覚悟する必要があるのですね。

 人生には喜怒哀楽があるのが当たり前ですから、起きた出来事を受け入れる覚悟をする。
起きた出来事を丁寧に見つめる覚悟をする。馬鹿で無様な自分を許す覚悟をする。
覚悟とは、プラス・マイナスに振れた心をゼロにリセットする事と分かってきました。
 生き苦しさを弱める為に、当たり前の事を当たり前と覚悟するしかないですね。

                                  平成21年 6月

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「価値があるから大切にするのではなく、

              大切にするから価値がある!」


 自分の幼少時代の境遇から、自分の生きる価値について疑問を持ち続けてきました。
未熟な怖れを持ちながら、自分の存在理由を探りながら生きるって結構きついことでした。
本気で死んだ方がましかなと思った事は、一度や二度ではありませんでした。
死ぬほどの勇気がなかったからなのか、折角の命だから死んだ気になって生きてみようと思ったからなのかは分かりませんが、今日までなんとか生きてきました。

 気管支の弱さ(イコール虚弱体質なのです)・持病の腰痛。頭が余り良くない・だらしない・持続力がない等々・・そして、つまらない事でつまずいたり転んだりしてしまう不注意さ。
自分の欠点を上げると、自分がなんと価値のない人間かと思えてきてイヤになります。

 しかし、今、完全ではなくとも自分は生きていて良いのかなと思えている自分に気付き、ホッとしています。このように自分の気持ちが変化した理由の一つに、自分に対して疑問や不安を持ちながらも取りあえず今、自分の出来る範囲で頑張ってみよう。自分を可愛がってやれるのは自分しかいないのだから、出来る限り自分を可愛がってやろうと大切に扱っている内に、いつしか大切にしている自分がいじらしくなってきて、自分が自分を好きになっている事に気付きました。きっと、好きになった分だけ、未熟な自分を許せるようになったからでしょうね。

 今でも相変わらず、失敗はします。
特別にすごい事が出来るわけでもなく、自分の能力の無さにイヤになる事は沢山あります。
それでも自分を見捨てないで大切に扱っている自分を思うと、いとおしくなってしまいます。
何かが足りなくても、これが自分らしさと言い聞かせ、今の自分に与えられた条件で生きていこうと思えてきます。こんな事を書くと、自己満足、自己中みたいですね。

 でも、苦手な読書一つとっても、自分の読解力の無さに呆れながら40年も飽きもせず踏ん張ってやり続け、なんとか読解力を身につけました!? 男は頭ではなく、腕力と度胸で生きていこうとした人間が40年もの間、数千冊の読書を続けるなんて信じられない思いです。
40歳で一日80本のタバコを禁煙。50歳で禁酒。毎朝一時間のトレーニング等々・・・
今日まで、自分なりに一回こっきりの人生を心して、自分を大切に生きてきました。
 
 そして、「価値があるから大切にするのではなく、大切にするから価値がある」という思いを手に入れました。「自分はあるがままで価値がある」という思いに一歩近づいた気がします。

                                  平成21年 5月

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「自分はあるがままで価値がある!?」


 ここ数日思い通りにならない事が続き、何となく腹立たしい思いで過ごしていました。
そんな時「腹立ちは人の態度で立てるより、人に対する自分の要求からきている」と言う言葉に出会いました。自分に重ねてみますと、私の腹立ちの多くは人に対する過度の要求であった事に気付かされます。穏やかに生きるヒントになりそうなので、早速調べ始めました。

 この過度の要求は、未解決の幼児的願望からきている事が分かりました。
愛して欲しいのに愛して貰えず、あるがままの自分ではダメと教え込まれ、自分のしたい事や自分の願いを飲み込み、嫌われぬよう我慢してきた幼児期の満たされぬ思いなのです。
多くの人が大人になっても幼児期の願望が満たされず、くすぶっている事実に気付く事です。
それが重症な人は欲求不満から三面記事を賑わすか、人の評価を異常に求めて燃え尽きる。あるいは、人から愛して貰いたいのに求めすぎて疎んじられ孤独になる。果ては、人を恨み世を憎んで死んでいく。そんな悲惨な人生が想像され、他人事とは思えずゾッとしてしまいます。

 あれを直しこれを直せば子供は幸せになれると勘違いした親から、そのままではダメというレッテルを貼られた事の重大さに気付く事です。そして、その上で二つの事を心するのです。
先ず第一に、この歪んだ心を植え付けられたのは自分の責任ではない。しかし、歪んだ心をどう克服していくかは自分の責任であり、自分の背負った運命だと覚悟するのです。
第二に「自分の選んだ人生は辛い!」と、本気で覚悟するのです。覚悟が甘いと辛くなります。
その上でどう克服していくかを考えると、愛情飢餓感から人に対して幼児的要求をしがちな自分が見えてくるのです。腹立ちや辛いと感じた時、幼児的な過度の要求をしていないか自分に問いかけ自戒するのです。これが未解決の幼児的願望を克服する糸口になるのだと思います。

 埃にまみれて野辺に咲くタンポポは、大切に手入れされたバラ園のバラとは違うのです。
心理的に健康に育てられた人と同じように、そこそこの努力をすれば幸せになれると勘違いしない事です。健康な人と同じだと甘く考えるから、起きた出来事に傷付き、つまずくのです。
「自分の人生は辛い!人生は不公平だ!」と受け入れるのです。本気で受け入れると逆に、悪い事ばかりではないと思えてきて、自分の背負った運命を生きて行く気力が湧いてくるのです。
大人になっても「ダメレッテル」を貼りたがる人達は周りに沢山います。その中にあって自分はあるがままで良いのだと挑んでいく、その過程に生きる意味と生きる喜びがあるのでしょう。

 「自分はあるがままで価値がある!」と、心から思えたらなんと素敵な事でしょう。
バラにはなれなくても、明るく元気にタンポポらしく咲き誇れたらなんと素敵な事でしょう。

                                平成21年 4月

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「幸せの一本道!」



最近、幸せってなんだろうと、フッと思う時があります。
テレビ等を見ていると豪華な住まいや食事、高級車・ブランド品、海外旅行等々、何かすごい贅沢が出来る事が幸せなんだと思わされてしまいます。
 社会人になってからというもの、自分なりに幸せを求めて頑張ってきました。
先ずは経済力、そして、社会から認められるポジションを手に入れさえすれば・・・。
社会人として成功すれば、幸せは手に入るものだと思っていました。

 最近、それが違うような気がしています。
先日入ったお店の壁に、今の気持ちにピッタリの言葉が貼られていました。
   『幸せは求めるものではなく、感じ取るもの!』
本当にそうですね。幸せは外に求めるものではなく、心の内で感じ取るもの。
目が見える幸せ。耳が聞こえる幸せ。話が出来る幸せ。手足が動かせる幸せ等々・・・。
ちょっと考えてもこのように私達には、無数の幸せが誰にも同じように与えられているのです。ただ、その与えられている幸せに気付けるかどうかなのですね。
 
 又、幸せ探しは貝殻拾いに似ていますね。
漫然と歩いていたのでは、浜辺に打ち上げられた貝殻達に気付けません。
ましてや、砂に埋もれた大切な貝殻を手にすることは永遠に出来ません。
そして、分不相応の大きな幸せを期待していたのでは、静かに微笑みながら拾い上げられる事を待っている、小さな幸せ達を見過ごしてしまいます。
求めすぎる人、感謝の念の薄い人、言い訳ばかりして素直にごめんなさいが言えない人達は、気付くのが難しいでしょうね。そして、自分を許せない人も難しいような気がします。

 最近、自分を許せる度合いが大きくなった分、小さな幸せを感じ取れるようになりました。
自分が許せなくてダメだと思っていた時は、人が評価するようなすごい幸せを求めていました。
今は、人の目ではなく自分が感じたもの、ささやかでも自分らしい幸せを静かに味わっています。だから、平凡で大した事でもないのに、なんとなく満たされる妙に包まれています。

 そして、何もなくても幸せと感じ取れる裏には、絶対外せないものがある事に気付きました。
それは、自分が大切と思っている人としっかりと繋がっているという安心感です。
社会的成功よりも、自分が大切な人と繋がっているという安心感が、幸せの一本道なのですね。
  
                                  平成21年 3月

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「結局、最後に救ってやれるのは・・・」

ある日、うまくいかない事を引きずり、意気消沈して帰宅しました。
カバンを手にしたまま居間に入った時、テレビから流れる番組に釘付けになりました。
虐待・育児放棄された子供達を保護する児童養護施設のドキュメンタリーでした。
親に捨てられ心に傷を持つ子供と、施設の先生とのやりとりでした。
先生と言ったって、まだあどけなさが残る若い女の先生です。
優美ちゃんは、先生が自分を見捨てないか試す為に、わがままを繰り返したのでしょう。
若い先生が「もう嫌や。あんたの世話はもう嫌や!勘弁して!」
高校生の優美ちゃんが「それは私と縁を切るという事?」
若い先生が「そうや、縁を切るという事や。今までどれだけ嫌な事を繰り返してきたの?」
「先生と言ったって弱いんや。大人かて弱いんや!」と、涙をポロポロこぼしながら言うのです。しかし、そう言っておきながら先生は、優美ちゃんを卒業まで支え続けるのです。

 そうですね。先生かて人間なのです。参った時は参っていいのです。
本気で頑張っても頑張ってもうまくいかない時、弱音を吐いても良いのです。
意気消沈していた私は、その先生と一緒に涙を流しながら自分につぶやいていました。
時には、自分に弱音を吐く許可を出してやることも必要なのですね。
参りながらも踏ん張っていた私は、そのシーンを見て救われた思いでした。

 人間の行動の動機は、突き詰めていくと「愛と怖れ」のどちらしかないと言われます。
先生が子供の前で弱音を吐くという事は、子供の信頼を失うという怖れがある筈です。 しかし、あの若い先生は弱音を吐きました。何がその怖れを乗り越えさせたのでしょう。
傷ついた子供達を絶対見捨てないぞと、愛を動機に精一杯やってきたからでしょう。
きっと、その愛をベースにした思いが、信頼を失う怖れを乗り越えさせたのでしょう。  
 頑張っても頑張ってもうまくいかずに参った時、参った自分を許してやる事ですね。
自分を許せるという事は、この世でたった一人しかいない大切な自分を愛している証拠なのです。静かに自分を許していると、私は私!あるがままでいいのだと思えてきます。
人からどう思われるかという怖れが弱まり、次の一歩を踏み出す勇気が湧いてくるのです。
結局、最後に許して救ってやれるのは、神でも仏でもなく自分自身なのだと思います。

 私は私をあるがままに許して行こうと覚悟しましたから、何度失敗しても絶対に自分を見捨てないのです。それが、「優しさを高める」一歩になると確信しています。
                   
                              平成21年 2月

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「優しくなければ 生きる資格がない!」



 悲喜こもごもの中、新年が明けました。皆様にはどのようにお迎えになられたでしょうか。
一の年の計は元旦にありと申します。皆様の一年の計は、どのようなものでしょうか。
 昨年のリーマンショック以来、金融不安は払拭されるどころか混迷の度を増しています。
マスコミは相変わらず、不安を煽り出版物の販売増進に血道を上げる事でしょう。
こんな時、私達はマスコミの騒ぎに乗せられて、一緒に騒いで心を亡くしてはならないのです。
又、事業展開の厳しさから、ゆとりが失われる厳しい一年となる事でしょう。
心を亡くさぬよう、ゆとりを失わぬよう、本気でゆとりを高める工夫が必要となるのでしょう。

 ゆとりは心が満たされないと生じませんから、先ず、心の不満を弱める事からですね。
そのためには、求め過ぎないこと。求め過ぎるから不満の種が尽きないのです。
求め過ぎないでいると、当たり前と思っていた事さえありがたく思えてきます。
求め過ぎないでいると、出来事に一喜一憂しないで済みますから、出来事や人から自由になれ、
今の自分に与えられた条件で、生きて行こうというエネルギーが湧いてきます。
求め過ぎないでいると、平凡な日々にさえ感謝する事ができ、その感謝の念から心が満たされ、満たされた心からゆとりが生れるという好循環が生じます。
 遭難者が助けられた時「助かって心から嬉しい!」の一言で、ハッと思った事があります。
命があるということは何よりの事なのです。そして、助かった時の水一杯、毛布一枚がどれだけありがたいことか。やはり、私達は知らず知らずのうちに求め過ぎているのでしょうね。

 ゆとりは心が満たされる喜びからも生じますので、心が喜ぶ何かをすることも大事です。
あなたはこの曲を聴いたらあのドラマを観たら、涙が出てしまうというものをお持ちですか?あなたはあの場所に行けたら、生きていて良かったと心から感謝できる場所がありますか?
あなたは「これさえあれば踏ん張れる!」というものを持っていますか?

 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」という、レイモンド・チャンドラーの言葉が頭に浮かびます。この時期にゆとりを必要とする理由は、ただ一つ。
心が満たされゆとりが生じると、その人が本来持っている「優しさ」を呼び覚ますからです。
 今回の金融不安を生じさせた金融工学に優しさはなかったのです。どんなに高度で有効な理論であっても、そこに優しさがなければ、この人間社会では存続し得ないのです。優しさのない企業は存続し得ないのです。テクニックや立派な理論を身につける努力よりも、先ず、優しさを高める事です。この厳しい一年、幸せに生きたいなら人一倍、人に優しく接する事です。
きっと、生きる事が苦しいのは、優しさがないからだと気付かされる一年になる事でしょう。
 新年が皆様にとりまして、より良き年でありますよう心より念じてりおます。

                                 平成21年 元旦

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