第131号「暮れの一息」平成22年12月
第130号「変える勇気を失わない為に!」平成22年11月
第129号「妄想を手放し、二念を継がず!」平成22年10月
第128号「愛をください!」平成22年9月
第127号「怒らない方法より怒りの治め方!」平成22年8月
第126号「不満は自分がセットした試練!」平成22年7月
第125号「努力し続ける一つのヒント!」平成22年6月
第124号「あなたの内なる言葉は?!」平成22年5月
第123号「死ぬ時に思い出す事!」平成22年4月
第122号「苦境を脱出する唯一の解決策!」平成22年3月
第121号「自分の大好き度を計るモノサシ!?」平成22年2月
第120号「あなたの足元を照らす一灯は?」平成22年1月
「暮れの一息」
暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
「 フウーッ・・・!」
ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?
あなたはこの一年、どれだけ自分を大切に扱われた
でしょうか?
「・・・・・・・?」
全部が全部出来ないとしても、しなければならない事ではなく、
自分のしたい事をして、どれだけ自分の心を満たしてあげましたか?
「・・・・・・・?」
自分の心を喜ばせば喜ばす程、自分を好きになってはいきませんでしたか?
「・・・・・・・?」
そんな時、うまくいかない事があっても、まあいいかと思いませんでしたか?
「・・・・・・・?」
満たされた心のプラス分が、マイナス分を相殺させるからでしょうか?
それとも、自分を好きになった分だけ、自分を許せたからでしょうか?
「・・・・・・・?」
あっという間の、この一年。
思い通りにならない沢山の出来事に翻弄されながらも、負けずに生き抜いてきた
のは、うまくいく自分に変える勇気を失わなかったからではないでしょうか?
勇気を失わない為に大切な事は、どれだけ自分を好きになれたからでは・・・?
あなたはこの一年、どれだけ自分を大切に扱い自分の事を好きになりましたか?
「・・・・・・・?」
この一年 ありがとうございました。
平成22年 暮れ
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「変える勇気を失わない為に!」
「自分が最低だと思っていればいいんだ。みんなより一番劣っていると思っていればいいんだよ。そうしたら、みんなの言っている事がちゃんと頭に入ってくる。自分が偉いと思っていると、人は何も言ってくれない。自分がバカになればいいの。何でも言ってくれるよ。」
上記の言葉は、故人となられた漫画「天才バカボン」の作者、赤塚不二夫さんの言葉です。
確かにプライドの高い人間より低い人間に、人が集まり易いのは事実です。
しかし、人が集まってくる以前の問題として、普通の人が自分を最低だと思ったらどうなるかが問題だと思います。自分を最低だと思った瞬間、自分が嫌になり人の言っている事なんか聞く耳を持たなくなるでしょうし、最低だと思われたくない方に気が回って、人の言っている事なんか入ってこないのではないでしょうか? 今回は、この言葉に正面衝突してしまいました。
「神よ、変えられないものを静かに受け入れる心と、変えられるものを変える勇気を!
そして、その二つを見分ける知恵をお与え下さい」という祈りの言葉が再び頭に浮かびます。赤塚さんは、現状の自分を静かに受け入れることの大切さを言っているのでしょうか?
ダメな自分に出会った時、受け入れられない人は言い訳をして、ダメでない自分を証明しようとしがちです。時には嘘をついてまで証明しようとします。そして、言い訳をすればするほど自分のダメさ加減を自分の中に溜め込んで、自分を嫌いになっていくのでしょう。
受け入れられないという事は、将来も今の自分を変えられないと諦めているからでしょうか?
言い換えると、今のダメな自分を静かに受け入れられる人というのは、今がどんなに最低であっても実現可能な出来る自分に変える勇気を失わない人なのでしょうね。
現実の自分をごまかし否定している限り、スタート地点には立てません。実現可能な将来は、現在の自分を受け入れそこから始めるしか仕方がないのです。私達は魂を磨く為にこの世に生まれて来たのですから、うまくいくかどうかより沢山の出来事を通して、自分にとって変わる為に必要なものを見つけていく事が大切なのでしょう。出来る事を諦め安全圏の中で、自分に言い訳しながら甘えて生きるか。出来ない自分を静かに受け入れ、勇気を持って安全圏から一歩踏み出し出来る工夫をし続けられるかどうかが、わがままとあるがままの違いなのでしょう。
私は最低だと思わないまでもダメな自分を知っていますから、今日までなんとか無事に生きて来られた事を思いますと、皆様のお陰様に感謝しますと同時に、わがままばかりだけではなかった今の自分を静かに受け入れ、変える勇気を失わないでいられそうです。
平成22年11月
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「妄想を手放し、二念を継がず!」
今回は、スリランカ仏教界長老の瞑想法に関する本を読んだ感想をお伝えします。
私は今まで「人間はそのままで完全で、あるがままに生きる事が悟り!?」と、言われている事に強い疑問を持っていました。どう考えても自分が完全であるとは思えないし、あるがままは単なるわがままで、それを生きたらどんな人生になるか分からないと思っていました。
この本を読んだ自分勝手な思いを要約しますと、お釈迦様は「人間本来の心は悪そのもの!」と喝破されて、人間があるがままに生きるなんてとんでもない事と警鐘を鳴らされました。
心というものは、あるがままに放っておくと、すぐに悪い事をして自己破壊へ向かうもの。
努力するよりも楽をしたいし、食欲に負けて食べ過ぎたりと、良い事よりも悪い事をしたい私です。人は道徳も規則もなかったら堕落してとんでもない方向へ行ってしまうのでしょうね。
そして、煩悩の世界に住む私達は、妄想・感情に振り回され無明の世界に陥ってしまう習性を持っています。五感を持つ私達は、見たり聞いたりすると色々な妄想をして感情が生じます。例えば親しい人から小言を言われた瞬間、イヤな妄想をして不快な感情を生じさせ拒絶したり言い返したりします。その結果、新たな妄想から感情を呼び、その感情が妄想を呼んで二念三念と継がれていく内に、不快や不安な思いに心が汚れて悩み苦しみは増幅していくのでしょう。
ここから脱却するには小言を言われた時、ただ、「音」「音」と念じて心をクールに保ち、起きた事実を客観的に捉えて妄想しない。事実で止めて妄想から感情が生じないようにする。
それでも怒りの感情が生じたら「今、怒りがある」と認識してじっと見つめる。集中して今の心の状態を自分に逐一実況中継すると、妄想を広げている暇がありません。妄想の世界ではなく、今ここを生きる事が、妄想・感情に振り回されない心の浄化につながって行くのでしょう。
私は今まで、山ごもり・断食・地獄の訓練・お遍路等々を心の修行としてやってきました。
その都度、何か分かったような気になり嬉しく思いました。しかし、いっとき分かっても暫くすると元の木阿弥になってしまいます。自分のアホさ加減にあきれるばかりでした。
しかし、この本を読んで救われました。私達は煩悩の世界に四六時中、心を放っておく訳ですから、次から次と起きる妄想・感情に心が汚れ無明に陥ってしまうのは仕方がないのですね。
心が暴れそうになったら「事実で止めて悪い妄想はしない!」それでも感情が生じたら、心の状態を冷静に実況中継して初念止めする。「二念を継がず!」を徹底して生きることですね。
平成22年10月
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「愛をください!」
先月に続いて怒りを治める方法を学ぼうと、夏休みはヨーガ行者の本を読みふけりました。
なるほどとは思うのですが、何かしっくりこない時間を過ごして夏休みを終えました。
そんな時、辻 仁成氏の「愛をください」が手元に届きました。
「サヨナライツカ」に激しく共感したせいもあり、届いた翌日にはおちおち寝ていられず朝の3時過ぎに読み始めていました。途中から涙で文字がかすんできて、ついには泣き出す始末です。題名から恋愛ものと思われがちですが、人間愛をテーマにしているものです。
誰もが持っているであろう心の闇の部分を丁寧に綴ってあり、人の哀しさに心が震えます。
親に捨てられ、預けられた児童養護施設では虐待を受け、親や社会への恨みを引きずりながら孤独に生きる女性の心の支えになった、大切な人との18歳から20歳迄の文通の物語です。
彼女に言わせると、世界の99%は嘘で出来ていて、誰もがみんな幸福そうな顔をしては嘘をつきあっている。孤独なくせに孤独じゃないふりをして偽物の愛の中で安心して生きている。自分は間違ってもそんなごまかしの生き方はしたくないと強がっていながら、心の底では真似事でも良いから幸せになりたいと『幸せ』に憧れている。
親の愛を知らない人間が、狂おしいほど親に愛される幸福を求めてもその方法が分からない。
人に裏切り続けられ人を信じられなくなっていながら、心の底では人を信じたくて仕方がない。
人は皆薄汚くて人をだます為に生まれて来たんだと思っていながら、その一方で人に愛されたくて仕方がない。誰も愛せないのではなく、愛された体験がないから愛する方法が分からない。愛し方も愛され方も分からない薄幸の女性が、愛に溺れかけながら普通の幸せにしがみつこうとして、ただ幸せの匂いをかいだり温もりがほしかっただけ。しかし、その幸せは遠い。
幸福を知らない者が、よそ様の幸福の香りをかいでみたいと思っても、世の中はそう簡単には人を自由に歩かせてくれないもの。人の温もりを求めて疲れ果て、自分だけの世界に浸る時、孤独は一番の友達。孤独と仲良くできた時が、私の幸せの一歩なのだと彼女は思う。そして、自分の存在さえも恨んでいた彼女は、文通を通して自分が自分である事を喜べるようになる。
『幸福というものは人間の数だけあるのだから、君は君の幸福を探すべきだ』と著者は言う。
だから、幸せの実験に失敗しようとも、大切な人を遠ざけてしまわぬよう強がらない事。
そして、人間には人間の数だけ存在理由があるのですから、どんなに哀しくても諦めずに信じ続ける事。あなたの存在理由を証明してくれる大切な人に必ず出逢えるのですから。
平成22年 9月
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「怒らない方法より怒りの治め方!」
先月号で「あの人に対する不満や、あのイヤな出来事でないと学べないのですから、大概の所は我慢して成長の為に対処するしかないのです」と、お伝えし自分なりに実践してきました。しかし、イヤな事が重なるとついつい怒ってしまいます。怒った後の不快な気持ちの中で「怒らないでいたらどこまでイヤな事をされるか分からない」という恐れを持っていたり、「あんな事をされたら怒っても仕方がない」と、怒りの正当性を握りしめている自分がいました。
その正当性を証明するように、怒る事でイヤな事を何度も回避した経験を持っています。
この怒りの正当性は、自分の立場やプライド・面子から、自分の思い通りにみんなが動いてくれて当然というエゴの妄想が創り出しているのでしょう。ましてや、どんなに怒る正当な理由があったとしても、怒った瞬間、真っ先に傷つき不快になるのは自分なのです。
そして、怒っている間は適切な判断が出来ずに戸惑い、内臓にも負担をかけ自分の身体をジワジワと壊してしまうという二重三重の損を受けているのです。結局、怒ったら負けなのですね。
人間は不完全な存在です。不完全な自分を自覚するのなら、自分が持っている正しさを疑ってみる謙虚さや、相手に完璧さを求める事を自重する必要があるのでしょう。自分の正しさを主張するだけではなく、相手の正しさを考える事も怒りを弱める一助になるのでしょうね。
例えば、努力したのにうまくいかない時、自分の努力が正しいと思うから腹が立つのでしょう。自分の努力が間違っているかも知れないと思ったら、努力の仕方をどう工夫したら良いかに気が向いて、腹を立てている暇はないでしょうね。
今まで、独り言を通して怒らない方法を模索してきましたが、今の私には怒らない方法ではなく、怒った後の治め方を考えた方が良いようです。第79号に書きました「あっ自分は今、怒っているな!」と、自分の瞬間の感情を感じる事。腹を立てる事だけでなく「イヤだ・つまらない・楽しくない・辛い等々」の感情があったら怒っているのです。自分の心が感じる瞬間瞬間の感情を凝視すれば、不完全な人間の世に正しい怒りは存在しないし、怒りは自分のエゴが勝手に創り出しているという事に気付き、怒りは治まっていくのでしょう。自性徹見ですね。
幸せを求めて真摯に生きている私達の、その幸せを一番邪魔するのは怒りの心です。
心地良くああ幸せだなぁと感じているのも束の間、怒った瞬間、不快・不幸せの真っ只中に入ってしまいます。私は今まで、あるがままを勘違いしてエゴの怒りでどれほど幸せを壊して来た事でしょう。あるがまま(わがまま)を手放し「幸せだから歌うのではなく、歌っているから幸せ!」と、笑って笑って笑い飛ばして明るく元気に怒りを治める訓練に徹していきます。
平成22年 8月
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「不満は自分がセットした試練!」
最近フッと、人はなぜ不満を持つのだろうと思いました。
期待もしていない事をしてもらった時、とてもうれしく思い感謝します。内容によってはそのサプライズに感動さえしてしまいます。しかし、二回目にはその感謝・感動が当初よりは弱まり、何度目かには慣れて当たり前になってしまい、次にもっとしてもらいたい事を求めて期待します。その期待が満たされないと、そこに不満が生じます。その不満は自分にとって大切な人にほど強くなる傾向があるようです。ここが今回の不満を考える出発点になりました。
我が家には、12歳7ヶ月の雄犬トム君がいます。トムと一緒に暮らしていて、今までにいろいろな事を気付かされましたが、今回もトムからヒントをもらいました。
今までトムにエサを何度与えた事でしょう。何度与えてもトムの喜びは変わらないのです。
パサパサして味もろくにないドッグフードを毎日与えられても、トムが不満を言った事はありません。不満を言うどころか尻尾を振りながら喜んで食べているトムを見ていると、可愛らしくてたまらなくなると同時に頭が下がります。私だったら、不満タラタラですよ!
この違いはどこから来るのかと考えますと、人間が動物より強い感情を持っているからだろうと思います。108つの煩悩を持つ人間の哀れであり、生きる醍醐味でもあるのでしょう。
お釈迦様は煩悩の中でも特に「貪欲・愚痴・怒り」を三毒として選ばれ、もっともっとという欲求が満たされないと愚痴になり、ついには怒りとなって苦しむ人間の本性を説かれました。
煩悩を与えられた人間は、不満という苦しみと共に生きていく生き物なのですね。
そこでです。変な話になりますが、私達は輪廻転生を繰り返しながら魂の成長の為にこの世に生まれて来たというお話です。いろいろな不満やイヤな出来事は全て、偶然ではなく自分が自分の魂の成長の為にセットして来たのです。偶然に起きたと思うと後悔したり逃げ出したくなりますが、生まれる前に自分がセットしたのですからイヤがっている暇はないのです。
あの人に対する不満でないと学べないし、あのイヤな出来事でないと学べないのです。
自分がセットした試練ですから、我慢するところは我慢して成長の為に対処するしか仕方ないのです。ただ我慢して押し殺していると成長する前に壊れてしまいますから、イヤな事をジョークで笑い飛ばすくらいの柔軟さは身に付ける必要がありますね。イヤな事をガチガチに真っ正面から受け止めないで、ちょっと他人事のようにサラリと横に受け流せたら素敵ですね。
不満があると言っても「自分に乗り越えられない試練はセットしていない!」のですから!
平成22年 7月
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「努力し続ける一つのヒント!」
先月号で、内なる言葉の「ダメな自分」が頭をもたげてきたら、明るく元気に振る舞って吹き飛ばすのです。何万回と吹き飛ばすのです。遊び半分の努力では変えられないのです・・・と書きましたが、私達が今まで生きてきてこびりついた「ダメな自分」という心の垢は、ちょっとやそっとでは落とせないのです。必死に意識的に削ぎ落とさなければならないのです。
人は意識的に努力しないで「うまくいく自分」を自分の中に確立する事は出来ません。
明るく元気に振る舞っている人は、見えないところでひたすら努力しているのです。
見えるところでしか努力しないか、意識的に努力をしない人は、あんな風に前向きに生きられたらいいなあと、ノーテンキな事を言ってうらやましがり「ダメな自分」にとらわれるのです。生まれつき前向きな人はいないのです。思い通りにならない事やうまくいかない事に出会い、数えきれない涙を人知れず流してきたのです。それでも、うまくいくに決まっていると腹をくくって明るく振る舞い続けるから「うまくいく自分」を確立して前向きに生きられるのです。
そうは言っても、うまくいかなくても努力し続けるのは大変な事です。ここに参考になる一つの事例があります。今、私の周りには大変な問題を抱えて、解決の為に大いなる努力を強いられている人達がいらっしゃいます。その中には「ダメな自分」が頭をもたげても不思議ではないのに、「うまくいく自分」を信じて踏ん張っている人達がいます。その反面、「ダメな自分」にそのままどっぷりと浸かってしまっている人達もいます。
この違いは何だろうと考えますと、努力し続ける一つのヒントが見えてきます。
今、自分がしている努力の先に解決の糸口が見えるか、努力している自分の可能性を信じられる人は前向きに踏ん張れるのです。努力の先に希望が見えない人は、努力してもうまくいかないと思うから努力するのがイヤになるのでしょう。夢や希望の可能性を信じられると努力が楽しくなり、可能性が持てないと努力するのが辛く面倒になるのですね。
そして、もう一つ重要な事があります。
その夢や希望は、立派な事よりもその人らしい分相応なものである事が重要です。
「ダメな自分」にとらわれている人は、コンプレックスを打ち消す為に人から褒めて貰おうと立派な夢を語りがちです。立派な夢を語った瞬間、出来ない自分が頭に浮かんで「ダメな自分」をますます強化してしまいます。夢は語るものではなく、実現するものですからね。
人は分相応の夢を持ち、「うまくいく自分」を信じてその道を歩き続ける限り、努力は辛いものから楽しいものに変わり、明るく元気に努力し続けていけるのでしょう!
平成22年 6月
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「あなたの内なる言葉は?!」
先日読んだ本の一節が、ずっと頭の中に残っています。
「人間は、自分が探しているものしか見つける事が出来ない!」
自分がついてない人間だとか、いかに不幸で恵まれていないかという事ばかり考えていると、自分を不幸にするどんな些細なものも見逃さないほど敏感になってそれを見つけ出す・・・
10数年前に読んだ薄幸の少女パレアナの話しが、逆の話しとして思い出されます。
パレアナは、お人形を欲しがっていました。 しかし、教会本部から届いた慰問箱の中には松葉杖が入っていました。それを見たパレアナは一瞬がっかりしますが、気を取り直して「何でも喜ぶゲーム」を始めます。そして、自分は松葉杖を使う必要がない身体である事に喜びを見出します。このゲームをやりきるには、強い意志と覚悟が必要だと痛感した事を思い出します。
先日観たテレビからも感じました。母親から虐待を受けながらも健気に生きる少女のドラマです。少女の唯一の宝物、それは「自分の好きなものノート」なのです。その中に書かれているのは「風呂場の中に響く自分の声だとか、クリームソーダー」なんてたわいのないものが書き連ねてあって、肌身離さず持ち歩き、辛い時や寂しい時に眺めて自分を慰めているのです。
こんな事を書くと、幸せなものを本気で探していれば不幸にはならないと言われそうですが、幸せなものを探し求めていても、思いもよらない事が起きてしまうのが人生です。
傷ついたり哀しんだり、どうにもならない寂しさに沈み込んでいくのは仕方がなのです。
そんな時、何か良い方法があればと思うのです。これも10数年前にセミナーで学んだ事ですが、内なる声に自分の人生は創られるというようなものだったと思うのですが・・・?
人は他人の言葉より、自分の言葉に制御されて生きていくと言い換えた方がよいでしょうか?
例えば、幸せになりたいと思っていても、自分はダメな人間だと同時に思っていたら、その思いが内なる言葉として1日に何百回と頭の中を駆け巡り、ダメな行為を繰り返し「ダメな人生」を創り上げる。ダメなのは誰のせいでもなく、自分の使う言葉が人生を創っているのですね。
そこから脱皮するには「ダメな自分」から「うまくいく自分」へと言葉を変える事です。
「うまくいく自分」をイメージして振る舞うのです。「ダメな自分」が頭をもたげてきたら、明るく元気に振る舞って吹き飛ばすのです。何万回と吹き飛ばすのです。吹き飛ばした分だけ「うまくいく自分」が自分の中に確立するのです。遊び半分の努力では変えられないのです!
しかし、ダメだからする努力は辛いですが、うまくいくと思ってする努力は楽しいのです。
何があっても結局はうまくいくに決まっているのですから、明るく元気に振る舞うのです!
平成22年 5月
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「死ぬときに思い出す事!」
ちょっと気になる映画の原作を、電車の行き帰りの時間潰しにと軽い気持ちで読みました。
「あなたは死ぬ時、愛された事を思い出しますか?それとも愛した事を思い出しますか?」
という小説の一節に心が動かされました。その時、なぜか10数年前に「生まれ変わり」に関する本を読んで感動した事を思い出し、その本を改めて読み直してみました。
10数年経って読み直してみると、当時の感動した思いがとても浅かった事を感じました。
そして、同時にこの10数年の間、知らぬ間に色々な事を学んでいた事に気付かされました。
私は今まで、人から愛されたり人から好かれる人間になりたいと思っていました。
人を愛したり好きになるより、愛される人の方が人間のレベルが高いと思っていたからです。
読み直してみて、愛されるより愛する人間のレベルの高さと愛する意味の深さに気付きました。
前回に読んだ時、生まれて来た目的は「心を高める為」というだけで具体的に何を高めるかが不明でした。しかし、今回、人が生まれて来た目的は「人をどれだけ愛し、どれだけ許し、どれだけ受け入れるか!」の愛する心を高める為だという事にようやくたどり着きました。
この人生を評価する時、どれだけお金や地位を手に入れたかに大きな意味はないようです。
ましてや、お金や地位を手に入れる時、人を裏切ったり傷つけたりしていたら最悪ですよね!
一生をお金や地位と無縁な人生であったとしても、周りの人に愛情を注ぎ、関わった人々に喜びや幸せを与えたとしたら、それこそ意味のある人生になるのでしょう。
まるで、先々月号に書いた宮沢賢治の「雨ニモマケズの人」そのものですね。
私達はあの世から愛する心を高める修行に来て、この世の修行が終わったら、またあの世に帰って行くのです。残念ながら、この世で手に入れたお金や地位は持って行けないのです。
あの世に持って行けるのは、この世で修行して高めた愛するレベルの心だけなのです。
そして、あの世で一休みしたら再びこの世に戻って来て、前世で高めたレベルから修行が再スタートするのです。死んだらおしまいではないのです。だから来世の為に、今生で出来るだけ愛する心を高めておきたいものですね。永遠に続くこの生まれ変わり(輪廻転生)は、世界の各大学で真剣に研究され、その成果はオカルトや宗教を離れて誠実な形で発表されています。
80有余年という人生の時は長い。しかし、何千何万回と永遠に続く生まれ変わりの一コマと捉えたら、人生は瞬きの一瞬。その一瞬の中の出来事に怒り傷つき戸惑っている暇はない!
せめて今生のひとときを、泣き笑いしながらそれぞれの立場で愛する事に専念できたら・・・
生まれてきた意味に納得し、微笑みながらあの世に帰って行けるのではないでしょうか?
平成22年 4月
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「苦境を脱出する唯一の解決策!」
今、お客様たちは大変な状況の中、踏ん張っていられます。
先月の決算報告会でA社長の言葉が耳の奥に残っています。
売上高前年比6割減、創業以来初めての膨大な赤字決算になりました。
リストラや一斉休業、自宅待機を実施しても苦しく、一時は会社を解散することも考えました。
その解散を思いとどまらさせたのは、新規事業に一縷の望みがかけられたことだそうです。
そして、今後の会社存続の絶対条件は、何口にも分かれた融資口数を統合して長期返済にし毎月の返済額を半減することです。それと同時に新規の融資も受けなければなりません。
それらのことを、今期の決算書と事業計画書を携えて銀行と交渉しなければなりません。
銀行と難題の交渉をする時、何がキーポイントになると思いますか?と、社長に質問しました。
すると、しばし考えられた後、「明るく元気にすることです!」と回答されました。
そうですね、この時期、銀行が安心して融資できるような決算を組める会社は数少ないことでしょう。こういう時、数字の説明をすればするほど融資できない理由を浮かび上がらせるだけです。ナイナイづくしの時は、この無手勝流で対処するのも一つの対処法です。そんな事で銀行がウンと言ってくれるほど甘くはないと怒られそうですが、これしかないのです!!
しかし、現にこの決算内容では無理だと思える他のお客様が、融資を実行されているのです。
どんなにひどい状態でも、そこの社長は驚くほど明るく元気に振る舞っているのです。
銀行の融資担当者も、何とかなるのではと巻き込まれている節があるのです。
そのためには、取って付けた明るさや、カラ元気ではだめなのです。
心の底から本気で明るく元気に振る舞い、相手に感動を与えられるほどでないとダメなのです。
そこで、A社長に明るく元気に振る舞う要諦は何ですか?と問いました。
「私は車に乗っている時「ありがとう・感謝します!」と、窓を閉めて腹の底から叫ぶ習慣を持っています。腹筋も鍛えられますから」と、63歳のA社長はおっしゃいました。
グッドですね!事業の成功はあくまでも手段であって、私達の生まれて来た本来の目的は自分の魂を高めるためなのですから。この苦境は魂を高める絶好のチャンスなのでしょう。
「今、会社が大変な時なので、私が率先垂範しなければいけないので、夕食は夜中の12時頃になっていますから、自分を大切に出来ていませんね」と、明るく元気におっしゃいました。
苦境を脱出する唯一の解決策は、社長が夢を手放さず率先して行動することに尽きますね。
平成22年 3月
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「自分の大好き度を計るモノサシ!?」
一寸先は闇の混沌とした今の世を生きて行く拠り所となるのは、「どれだけ自分を大好きになれるか」にかかっているのでは?と、先月号で書かせていただきました。
そうなると、自分の大好き度はどれくらいなのだろうかという疑問が生じました。
そこで今回は、自分の大好き度を計るモノサシ(基準)を考えてみました。
思いつくままに列挙してみます。
「自分が大好きだったら、一人でいても寂しくない。
寂しかったら、ないものねだりで自分の外に何かを求めているのでしょう。」
「自分が大好きだったら、思い通りにならなくても誰かのせいにしない。
誰かのせいにしたら、自分の不足に気付いていないのでしょう。」
「自分が大好きだったら、人に自慢しない。
人に自慢したくなったら、まだ自分をあるがままに受け入れていないのでしょう。」
「自分が大好きだったら、人の振る舞いで腹を立てない。
人の振る舞いで腹が立ったら、自分の尊厳に気付いていないのでしょう。」
と、ここまで書いてきて、列挙するだけでなく一つの対応策をご提案したくなりました。
心はコロコロ変わりやすいですから、寂しかったら・誰かのせいにしたくなったら・自慢したくなったら・腹が立ったら、「ありがとう10回」「大好き10回」を心の中で唱えるのです。
10回も唱えていると、心が暖かくなり「まあいいか!」と思えてきますから不思議です。
どうぞお笑いにならずに、だまされたと思って是非一度、二度、三度とお試し下さい。
こんな事を考えていますと、中学生の時に習った宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩が思い出され、50年前に、こんな人間になるのはイヤだと思っていた事に苦笑してしまいます。
雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている・・・(中略)
私心を忘れ 人の為に色々な手助けをし(意訳)・・・(中略)
それでも みんなにでくの坊と呼ばれ
褒められもせず 苦にもされず そういう者に私はなりたい。
自分が大好きであったら、いつも静かに笑っている。何があっても「笑顔」で過ごせる事が、自分の大好き度を計る最重要なモノサシなのでしょうか?
平成22年 2月
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「あなたの足元を照らす一灯は?」
悲喜こもごもの中、新年が明けました。皆様にはどのようにお迎えになられたでしょうか。
一年の計は元旦にありと申します。皆様の一年の計は、どのようなものでしょうか。
迷走を続けていく混沌とした今の世にあって、何を拠り所として生きて行けば良いのでしょう。
先ず、私の頭に浮かぶのが、次の言葉です。
「一灯を下げて暗夜を行く、暗夜を憂うる事なかれ、唯、一灯を頼め!」
電灯もない江戸時代、夜道を歩く時の頼りは足元を照らす一灯の提灯でした。
一寸先は闇の現代にあって、あなたの足元を照らす拠り所となる一灯は何でしょうか?
周りを見渡すと、世の喧騒に波風を立てることなく心安らかに過ごしている人がいます。
その人をじっと観察していますと、一つの事に行き当たります。
その人は、「私はこのままでOK!」欠点があるにもかかわらず自分を肯定しているのです。
その肯定できる度合いは、どうも自分を好きになっている度合いに正比例しているようです。
「自分が大好きな分、自分を肯定することが出来る」これが私の推論です。
「自分を大好きになるには、自分を何より大切に扱うこと」これが私の持論です!?
しかし、多くの人達は自分を大切に扱うことを遠慮して中途半端になりがちです。
子供の頃から、「自分より他人。多少自分を抑えても他人の為に生きるのが望ましい」と言う道徳観念が植え付けられ、マインドブロックとして頭の中にあるからでしょう。
自分の扱いが中途半端ですから、表面的に満たされていると思っても内側の本音の部分では満たされていないので、欲求不満から中途半端に扱う自分を好きになれないのでしょうね。
誰もがマザーテレサになるのは難しいのです。このマインドブロックを外さないと、決して自分が満たされる事がなく、心安らかに生きる程に好きになれないのです。その為には先ず、自分のしたい事にウソをつかず、自由に本音で生きる許可を出す事です。自分の心を偽ってしなければならない事から、自分がしたくてたまらない事をして自分の心を満たしてあげる。
そこに生きる喜びが生じ、そのように大切に扱う自分を自分が大好きになるのでしょうね。
自分が大好きになると欠点すらご愛嬌となり、後で直していけば良いかと肯定できるのです。
しかし、その為には多少の失う痛みや、本音で生きるコストを払う覚悟がなければなりません。
欠点があるにもかかわらず「私はこのままでOK!」と肯定する暖かい炎を心の中に灯し、あなたの足元を照らす一灯に出来たら素敵ですね。「自分をどれだけ大好きになるか」ですね。
新年が皆様にとりまして、より良き年でありますよう心より念じてりおます。
平成22年 元旦
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