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第143号「暮れの一息」平成23年12月
第142号「みんな違って みんないい!」平成23年11月
第141号「星守る犬!」平成23年10月
第140号「自分を十分に愛していたら・・・!」平成23年9月
第139号「輝いて生きる!」平成23年8月
第138号「被災地に響いた歌声!」平成23年7月
第137号「本当の幸せ?」平成23年6月
第136号「繋がっている日本、日本は楽しくなるはずです!」平成23年5月
第135号「東電頑張れ!東北頑張れ!日本頑張れ!」平成23年4月
第134号「目先の外的条件より大切なこと!」平成23年3月
第133号「トラブルも人生の自然な一部分?!」平成23年2月
第132号「しなければならない事ですか?」それとも「したい事ですか?」平成23年1月







                「 暮れの一息」



暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
      息を吸って 止めて・・・  ゆっくり 吐いて・・・
      息を吸って 止めて・・・   ゆっくり 吐いて・・・
             「 フウーッ・・・!」

   ひとつ、変な事を お聞きしていいですか?
   あなたはこの一年、どれだけ「自分のしたい事」をしてこられたでしょうか?
              「・・・・・・・?」
   
   自分のしたい事だけしていたら周りから相手にされなくなるので、したい事を我慢
する必要だってあるだろうとお叱りを受けそうです。でもその我慢こそが、人間関係を
うまくいかせる為の、あなたのしたい事の一つではないでしょうか?
             「・・・・・・・?」 
   
   私達がうまくいくように願って我慢する時、問題なのは我慢する事を「しなければ   ならない事」「辛い事」と捉えているからではないでしょうか?    
             「・・・・・・・?」
   
   度が越える我慢は問題ですが、バランスを取りながら自分も人も幸せになる工夫の
一つとして捉えたら、したい事の意味が変わってくるのではないでしょうか?
             「・・・・・・・?」 

   我慢の程度を考慮した大人としてのしたい事が見えてくるのではないでしょうか?
             「・・・・・・・?」 

    あっという間の、この一年。
   あなたはどれだけ「自分のしたい事」をしてこられましたか?
   それは、単なる「わがままなだけのしたい事」でしたか?
   それとも、自分も人も幸せになる「大人としてのしたい事」でしたか?
             「・・・・・・・?」

        この一年 ありがとうございました。

                                 平成23年 暮れ



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            「 みんな違って みんないい!」         



世の中には世の為人の為に大いに貢献している人や、使命感に燃え苦難の壁をものともせずに乗り越えて偉業を達成する人がいます。そんな人を見ていると凄いなあと思うと同時に、自分を振り返り自分のなんと小さき事かと落ち込んでしまいます。しかし、自分の心がそう感じた時は、落ち込んで良いのです。ただし落ち込んだ時、気を付けなければならない事が一つあります。ダメな自分を否定すればするほど辛くなるだけですから、自分を責めないで許してあげる事です。自分の人生を生きるには、ダメでも許せる所から許していくしかないのです。 自分を許せると、心がホッとして、小さい自分だけど「まあいいか!」と思えてきます。
凄い人は、凄い。自分は自分。それでいいと思えてきたらしめたものです。

 そして、落ち込んだ時にもう一つ気を付けなければならない事は、ダメな自分を嫌わない事。
自分を好きか嫌いかで人生は決まるようなものですから、自分を嫌ったら人生はおしまいです。
自分が嫌いな人は、何をやっても否定的で自己嫌悪にどっぷり浸かってふて腐れて生きるだけ。
中途半端に好きな人は、自分の長所だけ好きで短所は嫌う。良いとこ取りで一番始末に困る。
中途半端に健康な人が、健康の為に中途半端にしか努力しないのと同じように、気分が乗れば努力するし、気分が乗らなければ努力しない。
自分が大好きな人は、長所だけでなく短所も自分の一部として静かに受け入れます。
そして、出来ない自分を責めないで今の自分が出来る事を楽しんでやっている。

       私が両手を広げても お空はちっとも飛べないが
       飛べる小鳥は私のように 地面を早く走れない
       私がからだをゆすっても きれいな音は出ないけど
       あの鳴る鈴は私のように たくさんな唄は知らないよ
       鈴と小鳥とそれから私 みんな違ってみんないい (金子みすゞ詩集より)
 
 あなたにとって得意な事と、私にとって得意な事は違うのです。
あなたにとって大切な事と、私にとって大切な事も違うのです。それぞれ違う事を認めて、
「みんな違ってみんないい!」と、みんなと違う自分を嫌わずに受け入れてあげる事です。
それでも嫌ってしまった時、自分の取り柄を探すのです。どんな人でも取り柄は必ずあるものです。見つけた取り柄がどんなに小さくても、そこからコツコツと努力していけば良いのです。
人は皆、星守る犬なのですから、叶わなくても叶わなくても望み続けていけば良いのです。
今の自分が出来る事をきっちりやって、本気で願う夢の実現を目指していけたら素敵ですね!
                                  平成23年11月


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                 「 星守る犬!」





今まで、この独り言に書いてきた多くの事は、「腹が立たないようにするには?」とか、「腹が立った時の対処法」とかに集中しています。私が日頃、理不尽な事や思い通りにならない事に振り回されやすい人間だという事を物語っています。なぜこのような性格になったのかは、色々な理由が挙げられますが、一番の理由は多感な子供時代に自分の存在を否定されるような愛情の薄い時を過ごしたからでしょう。今思えば、子供の無邪気な願いさえ叶えられずに我慢の一字だったような気がします。そんな境遇は自分だけの事とは思いませんが、思い通りにならない事に出会った瞬間、子供時代に傷ついた心が疼いて自分を否定されたような気になって腹を立てるのでしょう。人は生きていく上で、自分の存在を否定される事が辛いのでしょうね。

 ここ数年、犬を題材にした映画やドラマが何本か制作されましたが、お涙頂戴的な内容で鼻白む事が多く観る事を避けていました。しかし、ひょんな事から「星守る犬」を観ました。
映画の半分位は泣いていたでしょう。時が経っても、思い出すと目頭が熱くなってきます。
これから、観る人がいるでしょうからストーリーの詳細は省きますが、「幸せは何か?」という事を考えさせられる秀逸な映画だと思います。

 心臓病を患い、会社をリストラされ、妻から離縁され、夢も希望も失った中年男が飼い犬と共に旅に出る物語です。それは心身を病んだ人間の残されたわずかな「生」を生き抜く旅であり、人間社会から存在を否定された中年男に対して、飼い主の存在の必要性を信じ続ける飼い犬の叶わぬ願いの旅でもあります。望みが叶う事が幸せなのでしょうが、叶わなくても叶わなくても懸命に望み続けていく、その中にも幸せはあるのだという事に気付かされます。
望みを捨てない限り、幸せに見捨てられる事はないという強い思いが湧いてきます。

 私が独り言を13年間も書き続けている理由もここにあるのでしょう。
その時その時に感じた事や学んだ事を、自分の怒りを抑える為に書き続けてきたのですから。我が身に起きる全ての出来事を、無理しないであるがままに受け入れ、穏やかに過ごせる日がくることを夢見て書き続けているのです。

 星守る犬とは、犬が夜空にきらめく星を物欲しげに見続けている姿から、手に入らないものを求める人・高望みをする人を意味します。映画のナレーションが、今も心に響いてきます。
    『望んでも望んでも叶わないから、望み続ける。
        只、それだけ!それでいい。人は皆、生きてる限り星守る犬だ!』

                                平成23年10月

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         「 自分を十分に愛していたら・・・!」
       
 


 今月は、先月号の「自分はこれでいい!」という肯定感を強化する方法を考えてみました。
人には本能の一つに自己防衛本能があり、無意識に自分の身を守ろうとする働きがあります。人はこの本能を持つが故に、放っておくと自然に守りに入り、暗くなる性質を持っています。
よく「私は根暗なんです」とおっしゃる方がいますが、それは人として当たり前の事なのです。
「根暗だから仕方がないんです!」と言って、周囲に陰気な雰囲気を与え、ウジウジしている人達は、自分に甘えて言い訳人生に一歩踏み出しているのです。

 人間はもともと根暗なのですから、辛い時に、より暗くなるのは当たり前の事です。
暗くなればなるほど踏ん張る力が弱くなり、あきらめの感情に包まれてしまいます。暗い感情に振り回されればされる程、自己否定感は強くなり幸せはどこかへ飛んでいってしまいます。
人生は頭の良さや才能で決まるのではなく、その人の感情で決まると言われます。
起きている事実に大きな意味は無く、その事実をどの様に意味付けして、どの様に感じ、どのように対応するかで、その人の人生が決まるのです。幸せに生きようと願うなら、意識して明るく振る舞い、「自分はこれでいい!」という自己肯定感を強化する必要があるのです。

 「自分自身を十分に愛していないから、相手に何かを求めてしまう」(ピーター・セージ)
自己肯定感を強化するヒントを探っている時、この言葉に出会いました。
自分を十分に愛していたら、相手に何かを求めたり、何かをして貰う事で、自分が愛されている事を確認する必要がない。自分を愛せない人は、他の人に愛される事で自分の愛せない空白を埋めようとする。だから、色々な事で相手の出方を見たり、自分の甘えをどこまで許して貰えるか等々、相手の反応で自分をどれだけ愛してくれているかを常に試しているのです。

 「自分は愛されているか?自分は評価されているか?自分は大切にされているか?」なんて考えている時、自分を愛する心が弱かったり、自分を評価できない何かに引っかかっていたり、自分を粗末に扱ったりして、自分を否定的に捉えている時なのでしょう。

 自分が自分を愛していたら「自分はこれでいい!」という肯定感が強くなり、相手の出方に一喜一憂する事は弱くなっていくのでしょう。自分を愛する第一歩は、自分を大切に扱う事。自分を大切に扱えば扱うほど自分が愛おしくなり、価値ある自分に気付いていくのですから。自分の価値を他人から愛される事に依存するのではなく、先ず、自分のやるべき事をちゃんとやって自分自身に納得する事。その後、自分の心が喜ぶ事をして自分を大切に扱う。この繰り返しの中で「自分はこれでいい!」と、納得しながら自分を愛していくのが一番ですね!
 
                                        平成23年 9月

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            「 輝いて生きる!」
       
 


  『世の中はその人が何の為に立って生きているかよりも、結果としてのうまくいった事を賞賛しがちである。だから多くの人々は、自分の存在理由を生きる事より「うまくいく事、安全な道」に焦点を合わせがちになる。そして、安全な道に甘んじる事により、真剣さが失われ、そこから惰性が生じ、いつしか自分の夢を失っていく。他の誰でもないあなた自身が、心からしたいと感じた事は何ですか? そして、あなたが本気でやろうとした事は?
人は夢を持ち、その道を歩き続ける限り、元気一杯の日々を過ごせるような気がします!』

 上記の文章は、平成12年6月号の独り言の文章の一部です。
先月号のKさんが被災してもなお「輝いて生きる!」と言われた言葉が頭から離れません。
私達はどうしても結果を評価する世に縛られて、自分がどう思うかではなく人がどう思うかを優先しがちです。そのように生きている限り、輝いて生きる事は難しいのではないでしょうか?
人がどう思うかではなく、自分がどう思うか。自分がしたいと思った事をスッと出来るか?
しなければならない事ではなく、したい事を優先できるか? 義務感ではなく自分が喜ぶ事を優先しているか? このあたりが輝いて生きる上で大切なポイントなのではないでしょうか?

 私は今年の9月で65歳になりますが、私の61歳から65歳までの人生計画の中で「心と体が喜ぶ事」に焦点を合わせ、楽しみの時間を増やし、楽しくない時間を減らす事に徹しました。その主なものは次のようなものです。(自己中というお叱りは覚悟致しております)
1、お客様に喜んで貰い楽しく仕事をする為、楽しくないお客様を30社ほど解約しました。
2、健全な寂しさに耐える覚悟をして、義理や楽しくない人とのお付き合いをやめました。
3、限られた大切な人とのご縁が薄まらぬよう、儀礼的な年賀状を800通ほどやめました。
4,心を高める為の学びも、無理に学ぼうとしないで喜びや感動する事を優先しました。

 上記の実践は人間社会を生きる者として、人からの非難や経営上の影響を考えますと不安と葛藤の連続でもありました。しかし、人生の折り返し点を過ぎ、終着点が見えてきた者の限りある命への問いとして、多くのものを失ったとしても大切な自分を失わぬ事を優先しました。
5年間のしたい事を自由に楽しむという喜びの体験を通して、一つの大切な事を学びました。
心は喜べば喜ぶほど満たされて感謝の念が強くなり、思い通りにならない事への不満が弱まり許し易くなってきます。無理して許そうとしないのでゆとりが生じて穏やかになり、大切な人との繋がりが深くなっていきます。繋がりが深くなればなるほど「自分はこれでいい」という肯定感が生じて、生きている幸せを強く感じます。正にこの事が輝いて生きる事なのでしょう。
心を犠牲にしてまで社会的成功を求めるのではなく、心が喜ぶ事を優先するのが一番ですね!

                                   平成23年 8月

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            「 被災地に響いた歌声!」



1995年の阪神淡路大震災の地震発生時、Kさんはまだ布団の中にいました。
突然の激震。あっという間もなく家は大きく崩れ、同じ部屋に寝ていた奥さんとの間にドーンと何かが崩れ落ちて身動きがとれなくなりました。Kさんは大きな声で隣にいる奥さんに声をかけました。しかし、返事はありません。続いて別の部屋で寝ていた幼い子供達の名前を呼びましたが、やはり何の反応もありません。必死になって何度も何度も一人一人の名前を声が枯れるまで叫び続けました。それでも反応はありません。「やはり駄目だったか」Kさんは心の中で呟きました。そして、どの位時間が経ったのでしょう。諦めかけたKさんの耳にかすかに歌が聞こえてきました。耳を澄ましてみるとその歌は、奥さんが歌っている「故郷」でした。

 @兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川   夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
 A如何にいます父母 つつがなしや友がき 雨に風につけても 思いいずる故郷
 B志を果たして いつの日にか帰らん   山は青き故郷 水は清き故郷

 最初は喘ぐかのように細々とした歌声は、やがてひたむきな歌声に変わっていきました。地響きの音が消えた静寂の中、瓦礫の中に差し込んできた一条の朝日に照らされて聞こえてくる歌声は、まるで大宇宙を満たしているかのようだったと言います。歌声は何度も繰り返されました。そして「如何にいます父母」という言葉にさしかかった時、Kさんは不思議な感覚に包まれました。亡くなった両親が突然目の前に現れたかのような感覚で、まるで全身を火の矢で射抜かれたような衝撃でした。「ああ両親が助けに来てくれたんだ。瓦礫から守ってくれただけでなく、いつも見守ってくれているんだ」そう思うと、涙がポロポロと流れたそうです。

 「志を果たして いつの日にか帰らん」と三番の歌詞に移った時、自分が人生の旅路を終えて帰る場所は、父母のいる所だと理屈抜きに理解しました。そして「志」というのは立身出世の事ではなく、輝いて生きる事だと確信したそうです。人間は誰しも大宇宙に生かされた存在であり、自分も奥さんも亡くなった両親も共に深い所で命という絆で結ばれている。
生きているうちに身に付けた地位や財産は儚く消え去り、この世を全うした後は、魂の故郷に帰って行くのだと瓦礫の中で悟りにも似た確信を得たそうです。

 残念な事に二人の幼い子供達は命を失ってしまいました。しかし、Kさんはおっしゃいます。
「確かに哀しい事ですが、子供達は自分の使命を終えて魂の故郷に帰っていったのだと思います。子供達は、人間というものは永遠の世界に向かって旅を続けている存在である事を私達に教えてくれたのです」と。Kさんは「故郷」の歌で子供達を天国に送り、亡くなった子供達の分まで命を輝かせて生きる事を奥さんと誓いながら明るく生きておられます。

                                    平成23年 7月

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                「 本当の幸せ?」
       
 

 今回は幸せに関する本を何冊か読みましたので、それをまとめたくこの号を書いています。
人は思いが満たされない時に苦しみを感じ、満たされた瞬間その苦しみが消え快感を感じます。これは思いが満たされた瞬間、脳内にドーパミンという快感物質が発射された刺激による錯覚なのだそうです。私達が日頃、幸せと感じている正体は「一時的な快感による錯覚でしかない」という記述に、逆に不幸せの理由が分かったような気がしました。人間が心と体を通して知覚できる刺激は「苦」という感覚だけ。「苦」の量が増減するだけで、基本的な「苦」が無くなる訳ではない。お釈迦様が命懸けの修行で悟った「人生一切皆苦」がこれなのでしょう。

 私達が幸せを感じようとして、次から次へと思いを満たそうとするのは、瞬間瞬間、脳内に快感物質を発射して「苦」を減じているだけの事。この快感物質を発射し続ける事は、麻薬を打つように中毒化して、刺激の量が大きくなるだけで永遠に満たされる事はないのです。
思いを満たすに十分な地位や財産を持つ人達の中に、思いを満たそうとして贅沢三昧をしていながら欲求不満で心の病にかかったり、酒や薬に溺れていく理由が分かったような気がします。
一般人である私達にとっても、快感スイッチを連続入力するような現代の生活は、一時の快感で偽の幸福感に浸り、快感中毒になり易いので気を付けなければならないのでしょう。

 それでは、本当の幸せとはどんな状態を言うのでしょうか?
仏教の教えによると、褒められても心が浮つくことなく、非難されても落ち込むことなく、心が平静である事。心が波打つ苦しみから解放されて、穏やかに安らいでいる状態。
煩悩に翻弄される人間にとって、満たされぬ苦しみがあるのは当たり前の事。腹八分目を心してサラリと受け流し、時には正面から受け止め慣れ切るしかないのです。その為には瞑想の時間を持ち、快感スイッチをオフにして快感を求めない時間を持つ必要があるのでしょう。

 自分の悪行が、結局はイヤな事として跳ね返ってくるという自業自得という言葉があります。そう言うと、イヤな事は悪い事のように受け取られますが、そのイヤな事の意味が違うのです。
人は満たされぬ苦しみを感じる度に「業」を借金として貯め、その貯まった借金を精算する為にイヤな事が起きるのだそうです。だからイヤな事が起きるのは、辛いとか不幸な事だけではなく、貯めていた「業」が解消される喜ばしい事でもあるのです。それでも「業を精算するイヤな事」が少しでも起きないように過ごしたいなら、「業」は愚痴や悪口を言うだけでなく、感じただけでも貯まってしまうので、「人のせいにばかりしないで、自分にも落ち度があるのでは?」と考える習慣を身に付ける必要があるのでしょう。穏やかに心安らぐ本当の幸せは「業」を貯めぬよう、自分や他人の不完全さをどれだけ許せるかにかかっているのですから。

                                      平成23年 6月


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       「 繋がっている日本、日本は楽しくなるはずです!」
       
 

連日連夜、震災のニュースが流れています。
当初は全てのものを一瞬に失ったとしても、命が助かった事が何よりだと思っていました。
しかし、2ヶ月近く経っても電気・ガス・水道というライフラインは復旧せず、原発の処理も進むどころか悪化しています。避難所生活もこれだけ長くなってくると、たまらないだろうと心が痛みます。これから先の目処も全く立たず、途方に暮れながらも被災者同士踏ん張っている姿を見るのが辛くなってきます。この独り言も何かを書こうとするのですが、何を書いても空しくなるようで書く気になれず、今回の独り言は初めての休号にしようと思っていました。

 そんな時、九州新幹線開業のCMを観ました。3月12日開業でしたが、震災自粛という事で3回しか放映されなかったそうです。ところが、CMを観て感動した人達の口コミでYouTubeを通して広がっている話を聞き、私も観てみました。何度、観たことでしょう。
観る度に胸が熱くなってしまいます。そして、独り言を書こうという気力が湧いてきました。  
 朝のしじまの中、操車場を歩く一人の運転手さんからスタートです。
出発地の鹿児島中央駅のホームの上、思い思いの服装で目一杯の喜びを表している人々。
そして、沿道のマンションから、歩道橋の上から、学校のグラウンドから、畑のあぜ道から、自宅の屋根の上から、川の中から、神社の境内から、ビルの屋上から、自分の街を通り過ぎる新幹線に総勢1万人以上の九州の人々が、手を振り飛び跳ねながら満面の笑みで祝福している。
 いつの日にか、被災地の人々が復興を成し遂げ、満面の笑みで飛び跳ねている姿と重なってしまいます。そして、その日が必ず来る事を祈って観るから、胸が熱くなるのでしょう。
 
 CM最後のナレーションが、震災した人々へのエールのように心に染み込んできます。
   『あの日、手を振ってくれてありがとう・・・笑ってくれてありがとう・・・
    一つになってくれてありがとう・・・九州新幹線全線開業します。
    一つになった九州、新しい力が生まれています。
    一つになった九州、日本は楽しくなるはずです。
    九州新幹線、皆さんと一緒に全線開業です!』

 この新幹線開通により、鹿児島から被災地東北を経て青森まで日本列島が繋がったのです。
被災しなかった日本人は被災した人達と繋がろうとして、ボランテアに参加したり、救援物資を送ったり、義援金の振り込みを続けています。きっと、日本は楽しくなるはずです!

                                    平成23年5月


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      「 東電頑張れ!東北頑張れ!日本頑張れ!!」

未曾有の東日本大震災が私達に降りかかってきました。
今もなお、震災地の人々は苦難の日々を送られています。
直接の被害を受けなかった私達の周りでも、一時期のガソリンパニックや計画停電等で不便を強いられています。しまいには水汚染で水パニックも起き出しましたが、多少の不便があっても被災地の人々の事を思うと、簡単に不便さや苦情を言えるはずもありません。
  
 そんな中、心温まるニュースが届いて、沈みかけていた心が救われるようです。
地震の時、ファミレスで食事をされていた人達が屋外に避難した後、半数の人達が代金を支払いに戻ってきたそうです。その他の人達も翌日に支払いにきたそうです。停電により信号が止まっても、割り込みせずに歩行者も車もお互い注意しながら譲り合っていました。財産を失った辛さより命が助かった事に心から感謝している被災者の姿を見て、改めて命の大切さに気付かされます。被災して7日位迄は救援物資が届かず、寒さと飢えや不安の中にいたはずなのに、過酷な環境の中で救援してくれる人々に感謝の心を失わない被災者の姿に胸を打たれます。

 被災後14日経った被災地のレポートで、被災者の中から被災者を支援する人達まで現れました。その人に破壊された悲惨な光景を見てどう思いますか?とレポーターが質問した所「この光景に自然に慣れてきて、今はもう特別驚く事はありません」と答えた姿に、トラブルは人生の自然な一部分として受け入れ、復興に向けて進んで行こうという強い意志を感じました。直接被害の無かった東京でも震災直後は、主要道路を黙々と歩いて帰宅する人々。
電車がストップしてターミナル駅やバス停に人が溢れても、不満を言う人は見当たりません。
災害を否定することなく、起きた事をみんなが共有し受け入れているからなのでしょう。

 私どものお客様で震災の翌日、どうしても東京のお得意様へ行く用事があった社長さんは、渋滞の中、7時間も車の中にいたそうです。トイレなどはどうしましたか?と聞きましたら、車内にビニール袋がありましたから、その中にテイッシュを丸め簡易トイレを作ってしのいだそうです。なぜ、車中にビニール袋があったのか不思議だったので聞いてみました。その社長さんは、日頃から会社の周りのゴミを拾う習慣がある為、常にビニール袋を持っていたそうです。この震災で忘れがちであった、人の善なる心が健在している事を嬉しく思いました。

 東電には多少言いたい所はありますが、ここに至ってはこの言葉しかありませんね!
          「東電頑張れ!東北頑張れ!日本頑張れ!!」   

                                平成23年 4月

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         「 目先の外的条件より大切なこと!」
       
 

 下請的な事業を七年間、二人で力を合わせて頑張ってきたご夫婦から相談がありました。
知らない土地で初めての仕事を必死に誠実にやってきて、ようやく一つの節目を越えられたそうです。そして、次への飛躍の為に元請け会社と条件変更の交渉を始めたとのことです。
こちらの意志を伝えたまま、先方からはまだ何ら回答はないとのことです。
新しい年が始まり、今までの体験から湧いてきた色々なアイデアを実行したいそうです。
しかし、条件変更が認められないまま実行した場合、ご夫婦は金銭的にも肉体的にもかなりの負担を強いられ、交渉が裏目に出たり頑張り損になることへの不安をお持ちでした。

 そこで、私の20代の会計事務所勤務時代の体験をお話ししました。私は入所して1ヶ月目はサラリーマンでした。しかし、2ヶ月目に所長と交渉して解雇される一歩手前までいきましたが、なんとか内勤助手から一足飛びに顧問先を担当させて頂き助手を1名付けて貰いました。
外的条件はサラリーマンですが、私の中では個人事業主としてのスタートです。私の負担すべき経費を算出して損益分岐点を掴み、どれだけ利益を上げるかに焦点を合わせました。この利益が所長への給料になるのです。2ヶ月目からは、所長から給料を貰うのではなく私が所長に給料を支払うスタンスに立ちました。先輩から既存の顧問先を分けて貰ったり、新規の拡大等に全力投球しました。同僚や先輩からは、「どんなに頑張っても決まった給料しか貰えないのに、君は何でそんなに頑張るの?」と言われ、一部の人達からは煙たがられました。

 新規の顧問先を紹介して貰う為には、とにもかくにもお客様に喜んで貰う事が一番です。
明けても暮れても、どうしたら喜んで貰えるかに私の全精力を傾け実行しました。
この時の体験は、1ヶ月の給料の額とは比較にならない報酬として私の中に蓄積されました。
今年の事務所の行動テーマでもある、「怖れを手放し人に喜ばれると嬉しい愛をベースに行動する」は、この時の体験に少なからず影響されているのだと思います。

 人生における本当の財産は、お金や目に見える物ではなく、蓄積した体験なのでしょう。
この体験に何があっても大丈夫という「自分を信じる心」がプラスされると、より強固なものになるのでしょう。私がサラリーマンという外的条件に縛られてそれなりの勤務をしていたら、それなりの体験しか蓄積出来ず今日の私はなかったと思います。裏切られようが裏目に出ようが、働けるうちは出し惜しみすることなく、多くの全力投球体験を蓄積することです。そして、「目先の外的条件に惑わされることなく、お客様に喜ばれると嬉しいという一点に焦点を合わせ全力で実行することです!」とお伝えした時、ご夫婦の顔が一瞬輝いたように見えました。
その瞬間は、私の中に新たな体験が蓄積された瞬間でもありました。


                                    平成23年3月

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          「 トラブルも人生の自然な一部分?!」



 年末年始から思い通りにならないことが続いて、色々と考えさせられる一ヶ月でした。
思い通りにならないことのほとんどは人間関係です。トラブルのない良好な関係を願いますが、
もしトラブルが無かったとしたら、一定の距離を置いて利用し合う割り切った関係でしかないのかも知れません。大切な関係ほどお互いの相違に本気で向き合うので、トラブルは良好な関係を育む為にむしろ必要なことなのでしょう。そして、その小さなトラブルこそがワクチンのように免疫力を高め、将来の大きなトラブルに対処出来る免疫力を付けてくれるのでしょう。

 しかし、そう思いながらも思い通りにならない事で腹を立てる自分を許せなかったり、あの人がもう少し私の願うような人であったらとか、もう少し納得できる出来事であったらと無い物ねだりの中を右往左往していました。妄想が悪い方へ悪い方へと引きずり込もうとしますが、妄想との綱引きに負けぬよう踏ん張りました。本当の失敗はその失敗から何も学ばないことだと言われますから、このトラブルから学ぶことは何だろう?と問い続けました。
そんな時、酸っぱいレモンを見て美味しいレモネードを作った人を思うと、頭が下がります。

 その妄想との綱引きの中で気付いた事は、良好な人間関係は自分との関係を良くする事。どんな自分であっても優しく受け入れる事。受け入れられない自分であっても許す事が何よりも自分との関係を良くするポイントです。未熟な自分を許せなくてもそれが現実だから許すしか仕方がないのです。自分を許す事によって自分への言い訳が不要になり、トラブルを人のせいにしないで済みますから、自分の足りなさに気付けて人間関係の改善策を探り易くなります。

 それでも腹の虫が治まらない時は、怒りの感情を抑え込んだり変えようとしないで、そのまま味わうのです。湧いてくる感情を評価せずにじっと感じるのです。一ヶ月も試みていると、辛い事や悪い出来事があるのではなく、そのように自分の心が捉えるだけなのだと思える時もあり、心が少し軽くなってきます。そう思えてくると逆にこの世に辛い事や受け入れ難い事が、一つや二つあっても良いのだと思えてくるから不思議です。

 禅の達人と普通の人との違いは、普通の人は自分の人間らしさと戦い、禅の達人は自分の持って生まれた性質に抗わず「人間であること」を自分に許すことだそうです。
我が身に起きる出来事の全てをあるがままに受け入れられる穏やかな人間になりたいと願って努力してきましたが、そんなことは完璧主義者が陥る幻想でしかないという事に気付きました。モナリザのような永遠の微笑みをずっと保てる人など存在しないのです。小さな自分がイヤになったり、納得出来ないトラブルを受け入れられない時があっても良いのです。我が身に起きるトラブルを人生の自然な一部分として捉えることが人間としてのあるがままなのでしょう。

                                       平成23年2月


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  「 しなければならない事ですか?」
        それとも「したい事ですか?」



 色々な事があった一年が終わり、新しい年が明けました。
私達は旧年をリセットして、新年を迎えるという良い習慣を持っています。
皆様におかれましては、どのようにリセットして新年をお迎えになられたでしょうか?
一年の計は元旦にありと申しますが、リセット後の一年の計はどのようなものでしょうか?

 その立てられた一年の計は、どのように実践していかれるお積もりですか?
その計の実践は「しなければならない事」としてですか?それとも「したい事」としてですか?
しなければならない事と思うか、したい事と思うかには行動の動機に大きな違いがあります。
人の行動の動機には、突き詰めていくと「愛と怖れ」しかないと言われています。

 「しなければならない事」と思われていたら、きっと、怖れを動機にしているのでしょう。
人から嫌われたり否定されぬよう、失敗しないようにと、怖れに駆り立てられて仕方なくしようとしているのでしょう。嫌々ですから疲れやすく、逃れようとして言い訳をすればする程、心の中に怖れを強化してしまいます。しまいには怖れの不快さに腹を立て、怒りで打ち消そうとしますが何の解決にもなりません。弱い犬ほど良く吠えるというパターンに入るだけです。

 「したい事」と思われていたら、愛を動機にしているのでしょう。
社長であれば、これをすると社員が幸せになる。お客様や事業に関わる人々に喜んで貰える。
そういう思いを優先すると、人から嫌われたり失敗する怖れに支配される事は少なくなります。あるのは相手を幸せにしよう、人に喜ばれると嬉しいからしたいという思いがあるばかりです。
失敗の怖れよりも喜ばれると嬉しい思いが先に立ち、自分の思いにスッと許可が出せ、自分がしたいと思った事をサラリと行えます。これが怖れから解放された自尊の心なのでしょう。

 人生にはそれぞれに与えられた運命があり、波瀾万丈の波がある。うまくいったりいかなかったりという波が当たり前に起きてくる。その波は波として否定せずに静かに受け入れ、人に喜ばれると嬉しいという愛をベースにした行動を優先出来たらどれだけ楽しい事でしょう。
その為には先ず、自分が自分に喜ぶ事を徹底してするのです。自分を大切に扱い自分を大好きになるのです。大切に扱いながら自惚れではない自分を誇りに思う自尊の心を徹底的に養うのです。人は自尊の心を養った分だけ、人を大切にする他尊の心が生まれてくるのでしょうから。

 この一年、あなたは怖れをベースにした「しなければならない事」をしていきますか?
それとも愛をベースにして人に喜ばれると嬉しい「したい事」をして楽しんでいきますか?
 新年が皆様にとりまして、より良き年でありますように念じております。

                                       平成23年元旦

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