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第155号「暮れの一息」平成24年12月
第154号「時の経過の早さに流されぬよう!」平成24年11月
第153号「怒りの原因と対策!」平成24年10月
第152号「我に不足なかりしか?」平成24年9月
第151号「選択肢が少ない方が幸せ?」平成24年8月
第150号「我が家の先生パート7!」平成24年7月
第149号「不足あることを受け入れる!」平成24年6月
第148号「無理をしないで、今、あるもので十分!」平成24年5月
第147号「繋がって嬉しかった事!」平成24年4月
第146号「したい事をする怖れ!」平成24年3月
第145号「面白い心の連鎖!」平成24年2月
第144号「しなければならない我慢と、したい我慢!」平成24年1月







             「 暮れの一息」
       
 


暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
 「ふうーっ・・・・・」

 ひとつ、変な事を お聞きして良いですか?
あなたにとってこの一年は、どのような一年だったでしょうか?
「・・・・・・・・?」

 喜びの多い一年だったと おっしゃるでしょうか?
腹が立つ事の多かった一年だったと おっしゃるでしょうか?
哀しい事の多かった一年だったと おっしゃるでしょうか?
楽しい事の多かった一年だったと おっしゃるでしょうか?
それとも、何事も無かった一年だったとおっしゃるでしょうか?
「・・・・・・・・?」

 喜びの多かった一年でしたら、嬉しくなりますね?
腹が立つ事の多かった一年でしたら、大変でしたね?
哀しい事の多かった一年でしたら、寂しかったでしょうね?
楽しい事の多かった一年でしたら、生きていて良かったと思うでしょうね?
何事も無かった一年でしたら、つまらなかったと思われるでしょうか?
           「・・・・・・・・?」

 私は60数年生きて来て、初めて、命に関わる手術をしました。
手術後、意識が戻った時、ぼんやりした意識の中で無事だったんだと思いました。
指一本さえも動かすことが出来ないのに、生きているんだと思いました。
生きているんだと思った時、心の中で歯を食いしばって喜びました。

 今迄、何事も無く生きて来た事が、こんなにもありがたい事とは思いませんでした。
喜びや怒り・哀しみや楽しみなんて、無事に生きている事には到底かないませんね。
無事でなかったら、全部意味がないことですから・・・

                この一年 ありがとうございました。

                                    平成24年 暮れ




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           「 時の経過の早さに流されぬよう!」
       
 


最近特に、時の経過の早さに驚いています。
子供の頃は、一年がもっと長かったような気がします。
子供の頃は、運動会・遠足・その他色々な行事や気の重いテストがあったりしたからだと言われますが、果たしてそうだろうかと考えてしまいます。
大人になったらなったで色々な予定があり、むしろ子供の頃よりも忙しくなっている筈です。

 それでも間違いなく、時の経過の実感は早くなっています。
子供の頃、特別時間の大切さを思いながら過ごした覚えはありません。
むしろ、今の方が時間の大切さを思う事の方が多い気がします。
昔と今の時間の長さは物理的には変わっていないのに不思議でなりません。

 そんな時、ヒントになる言葉に出会いました。
1年の大切さを知るには、落第した学生に聞くとよいでしょう。
1ヶ月の大切さを知るには、未熟児を産んだ母親に聞くとよいでしょう。
1時間の大切さを知るには、待ち合わせしている恋人に聞くとよいでしょう。
1分の大切さを知るには、電車に乗り遅れた人に聞くとよいでしょう。
1秒の大切さを知るには、たった今、事故を避ける事が出来た人に聞くとよいでしょう。
10分の1秒の大切さを知るには、オリンピックで銀メダルに終わった人に聞くとよいでしょう。      (インターネットに投稿された言葉で作者不明)

 時間の長さは物理的に変わらなくても、その人の運命とか与えられた試練によって時間の長さは変わり、意味合いが変わってくるのですね。
今更、落第する事もないし、未熟児に関する体験に直接的に接する事もない。
恋人と待ち合わせする機会も無くなり、電車に乗り遅れて困るほどの事もなくなってきた。
ましてや、オリンピックとはいわないまでも競技に出る機会なんてさらさら無い。せいぜい今の私に残っているのは、事故を避ける事が出来た1秒の大切さぐらいなものでしょうか。

 時間の大切さを知る体験が減ってきているというより、同じような体験を繰り返しているうちに慣れてしまい、体験した事を実感しないままやり流しているような気がします。
感動する心が薄れ、記憶力も弱くなりつつある今、体験をやり流さぬようしなければですね。
これからは大切なものとそうでないものを区分けして、大切と感じた体験は反芻しじっくりと味わい、その意味を感じ取りながら時の経過の早さに流されぬよう生きていこうと思います。
                                     平成24年11月

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             「 怒りの原因と対策!」
       
 


この一ヶ月、腹が立つ度に「我に不足なかりしか」と問いかけながら過ごしてきました。
過ごしていて、1つの疑問が湧いてきました。「怒らない経営」に書いてあったように、怒るメリットが何もないのにも関わらず人は怒ってしまいます。人の行動には必ず目的があるというのが人間行動の定説ですから、怒るには怒るなりの目的があるはずです。

 そこで、怒る目的は何であるのかを考えてみました。
自分の期待が裏切られた事やイヤな事をされたことへの仕返しだったり、人を威圧してコントロールする為だったり、その他諸々の不安や不満を感じさせられたことへの怒りだったり等々 不快な出来事に対して気持ちをすっきりさせようと怒っても、かえって不快さが増大したり、不安や不満を解決しようと怒っても、逆に解決が遠のいてしまう事が多いのに怒ってしまう。
そして怒った後に、人間関係が壊れたり自責の念という副産物に苦しめられてしまうのです。
それでも怒ってしまうのは、せいぜい自分の未熟さを思い知らされる為なのでしょうか。

 そして、二つ目の定説。イヤな事をされたから怒ったと思いがちですが、怒りは最初に出てくる感情ではなくて2番目に出てくる感情。例えば、物事を成そうとする時、人が自分の都合良く動いてくれないと物事が失敗するかも知れないという不安が生じます。この不安が1番目の感情で、不安にさせられた事が原因となって怒りの感情が2番目に生じるという定説。

 そして、三つ目の「執着を手放せば苦しみから解放される」というお釈迦様の教え。
人の苦しみの原因は、誰のせいでもなく自分のこだわりや自我に執着してしまう事。
言い換えると、怒りの原因である不平や不満は、全てこの自我によって引き起こされ、
「自我=自分の都合」を手放せば手放すほど、怒りから解放されるという教え。

 「我に不足なかりしか」と問いかける時、自分の不足だけでなく自分の都合で期待する事も苦しみの大きな原因だという事に気付きました。自分の都合で期待する事に執着しなければ、一次感情の不安や不満から解放され、結果として二次感情の怒りから解放されるのです。 怒った結果をどうにかしようとするのでなく、原因である自分の都合や期待を正さないとダメ。

 「怒るのは結果で、原因は自分の都合から生じた不安や不満」ですから、何かのせいにしないで自分の都合を手放すのが1番。そうは言っても自分の都合を全て手放すことは至難の業ですから、せめて弱める努力は必要ですね。怒る度に、未熟さを受け入れ素直に反省し、自分の都合を程良い所で止める工夫をしていけたら素敵ですね!

                             平成24年10月

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             「 我に不足なかりしか?」
       
 


「しなければならない我慢」を「したい我慢」に置き換えて、楽しく元気に過ごそうとスタートした今年もすでに9月を迎えます。大切な人からイヤな事をされた時など、良好な関係を保ち楽しく過ごしたいので、小言や文句を我慢する「したい我慢」を意識してやってきました。
8ヶ月実践して分かった事は、心が満たされて穏やかな時には「したい我慢」が出来るのですが、イヤな事で心がささくれ立っている時や、イヤな事を引きずっている時は「したい我慢」をするのが難しく、ついつい文句が口から出てしまいます。

 心が穏やかな時には出来るけど、心がささくれている時には出来なくなってしまう。
これではあまりにも進歩がないと思っている時に、面白い本を読みました。
宅配寿司を日本一にした「銀のさら」の江見 朗社長の「怒らない経営」という本です。
目から鱗が落ちるに近い気付きがありました。
普通は部下の失敗を怒る時、自分は正しくて失敗した部下が悪いという考えになっています。ところが江見社長は「部下の失敗や過ちは、もともと上司にも責任があるのですから、一方的に怒るのは筋違いです。何がいけなかったのか、どこでどう間違ったのかを同じ目線で考え、一緒に正しい方向に修正していくのが本来のあり方では?」と、おっしゃいます。

 さらに、感謝する事の意味を、もう一歩進んだ視点で書かれています。
人に何かを与えられた時に感謝するだけでなく、ピンチに陥った時やツイてない時も感謝する。ピンチに陥ったりツイてない状態というのは、自分自身に何か足りない部分があったからではないか。自分以外の何かに原因を求めるのではなく、冷静に自分自身を振り返れば、きっと足りない部分に気付くはず。気付けばその部分を改善し、成長させ成長した自分で再チャレンジ出来る。うまくいかなかった事それ自体が、自分自身を成長させる絶好のチャンスを与えられた事になるのだから、嘆くのではなく感謝しなければならない。
絶対真理は、「うまくいかなくても幸せ、うまくいけばなお幸せ」であり、生きる事とは幸せそのものだとおっしゃいます。

 人にイヤな事をされたり、失敗されたり、ピンチに陥った時、私達は何かのせいにして腹立たしい気分に陥ります。しかし、こういう状態になったのは「自分にも何かが足りなかったのでは?」と冷静に考える習慣を付けると、怒るよりも改善する方向に意識が向いて「したい我慢」は不要になるような気がしてきます。江見社長、良い気付きをありがとうございました。

                                      平成24年 9月



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           「 選択肢が少ない方が幸せ?」
       
 


芸能界を見ていて不思議に思うことがあります。
連日、恋の始まりや終わりを告げるニュースで溢れています。
よくもまあ、そんなに次から次へと相手が見つかるものだと感心してしまいます。
華やかで恋する相手に不足しないのに、結局は幸せそうでないことを不思議に思います。

 選択肢が多いということは、豊かだと思いがちですが「三つ以上の選択肢があると、人は迷い不幸になる」と、以前に何かの本で読んだ記憶があります。
私もランチを選ぶ時、和・洋・中と多くの選択肢の中からどれにするか迷う時があります。
迷ったあげく選択して食べながら、他のものにすれば良かったと後悔することが多々あります。
これしか食べられないと限られている時は、何を食べようと後悔しようがありません。
選択肢が多いということは、幸せと逆比例の関係なのでしょうか?

 芸能界の美男美女達は、今、付き合っている人でなくても変わりはいくらでもいるから、
嫌なことがあったらさっさと別れてしまえばよいと思っているのでしょうか?
くっついたり離れたりして、傷つけあっている芸能人のニュースを見ていて、選択肢が多いというのも大変なものだと思ってしまいます。
恋するということは共感する感性が磨かれるので、下手な哲学書より人格形成上重要な体験だと思います。そして、恋は人間関係の中で一番感情的な関係だから、人間関係を保つ上で感情のコントロール訓練にもベストのことだと思うのですが、そこは中々うまくいかないようです。
 
 ちぎり絵で有名な裸の大将・山下画伯が、どもりながら話された言葉が思い出されます。
「ボ、ボ、僕ハ、コ、コ、コレシカ、デ、デ、出来ナイカラ、ヤ、ヤ、ヤッテイルンダナ!」
これしか出来ないからとやり続け、人を感動させる日本一のちぎり絵の世界を作り上げました。
人間関係においても、この人しかいないと思うから、トラブルがあっても踏ん張り続け、その踏ん張りのお陰で、トラブルから何かを学び人間的に成長していくのでしょう。

 芸能ニュースやランチの選択でこんなことを言うのもどうかと思いますが、選択肢が多いと目移りして、あれもこれもと欲しがって大事なものが絞り込めなくなるのでしょうか?
そして、求め続けることに汲々として、それが満たされないと終わりにするのでしょうか?
逆に選択肢が少ないと、イヤな事があったくらいであきらめる訳にいかないので、問題を乗り越える工夫を色々として、乗り越えた人にしか分からない何かを手にするのでしょうか?
 仕事も人間関係も、選択肢の少ない方が大切に育んでいこうとする想いが強く、その人の心を高めることに役立つのでしょう。選択肢の少ないことを悲観している場合ではないですね!

                                      平成24年 8月


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             「 我が家の先生パート7!」
       
 


我が家には14歳8ヶ月(人間の年齢に置き換えると80歳超)の雄犬トム君がいます。
独り言への登場は、4年前の腫瘍の手術以来7回目です。その間、トムの老いは進んでいます。
トムと同じ犬種(アメリカン・コッカースパニエル)の2匹のお友達は、昨年と一昨年に共に13歳で亡くなりました。この犬種の平均寿命は12歳くらいだそうです。

 トムはボール投げが大好きで、ボールを投げてやると飛び跳ねるように追いかけてボールをくわえて戻ってきます。何度も何度も、投げてくれとせがんで困るほどでした。
しかし、今はあんなに大好きだったボール投げもしなくなり、日中は寝てばかりいます。
トムのことを知っている人達から「トム君がボール投げをしなくなったらおしまいですね!」と、言われていましたから、昼も夜も寝ているトムを見るとせつなくなります。

 今はもう、右目は殆ど見えず、左目も半分くらいしか見えないのでしょう。
よい子でいるご褒美におやつをあげますが、あげようとして手からこぼれ落とした時など、おやつを中々見つけられません。家の中を歩く時も、テーブルや置いてある物にぶつかります。
しかし、ボコボコぶつかっていても、気にする様子もなく平気な顔をして歩いています。
 
 玄関のチャイムが鳴ったら「誰か来たぞっ、気を付けろ!」と、吠え立てていたのですが、今は耳が遠くなってチャイムが鳴っても気付かずに、我関せずと平然としています。
 おしっこをする時も、後ろ足を片足上げて男らしく悠然としていましたが、今は片足立ちが出来なくなり両足を地に付けたままします。女の子みたいだと恥ずかしがることはありません。
 
 日中あれだけ寝ていたのに、夜の九時過ぎになると私の側に来て「もう寝ようよ!」と誘います。普段は世話をしてくれる家内になついているのですが、寝る時はいつも私とです。
寝室に上がる時、トムは後ろ足が弱っていますから、一歩一歩ゆっくりと上がって行きます。私はトムが階段からずり落ちるのを警戒しながら、後ろから慎重について行きます。
寝室に着いても、以前は簡単に飛び乗っていたベッドに自力では上がれません。
私に介助されてベッドに上がっても、自分はダメになったなんて気落ちする様子はありません。

 こんなに色々と日常の営みに支障をきたすほど老いが進んでいるのに、トムがため息をついたところを見たことがありません。トムはうまくいかなくても愚痴をこぼすことなく、出来ないのは仕方がないと平然と生きています。トムの『老いにめげない生き方』に脱帽です。
 私にぴったりと寄り添い、安心して寝ているトムの温もりをそっと抱きしめ、明日も健気に生きてくれますようにと願いながら、眠りにつく今日この頃です。

                                 平成24年7月 


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          「 不足あることを受け入れる!」




世界の最も貧しい国の一つであるブータン国民の97%が幸せを感じて暮らしていることを思いますと、幸せに生きる為の条件とは何なのだろうと改めて考えてしまいます。
一定の経済力や欲求が満たされることは必要でしょうが、それだけではないのだと思います。
一つの事が満たされても次から次へと求め続けてしまう私達です。欲求が満たされることが幸せの条件だとしたら、永遠に幸せを実感することは出来ないような気がします。

 例えば、車が欲しくなった時、購入資金を作る為にせっせと節約します。
着たいものや食べたいものさえ我慢します。最初は中古車で十分。それも軽自動車で十分。
手に入れた時は嬉しくてたまりません。しかし、何年かするともう少し上のグレードの車が欲しくなります。最初手に入れた時、あんなに嬉しかったことを忘れてです。
しかし、無理して大きな車を買ったとしても、代金や維持費が余分にかかり大変です。
大変な上に、又、次の欲求が起きて不足が満たされることはありません。
不足があるにもかかわらず、軽自動車の維持費や小回りの良さに着目して、小さいからこそ良いのだと今ある幸せを喜べる人は幸せですね。

 不足があったとしても他の満たされていることに感謝して不足を受け入れられる人は、なんだか穏やかで優しいですね。そんな人の側は、心がホッとして和みます。
その人の欲求に応えなければいけないという怖れがないから、自然でいられるのでしょう。
逆に求め続ける人は、思い通りにならないことにイライラして苦しそうです。
そんな人の側にいると、こちらも気疲れして疲れてしまいます。
この両者の違いは大きいですね。幸せに生きる秘訣の一つが、ここにあるのかも知れません。
 3年前、旅の途中で入ったお店の壁に掛けてあった色紙の言葉が鮮明によみがえってきます。
          「幸せは求めるものではなく、感じ取るもの!」

 不足を求め続ける中には、苦しさはあっても幸せを感じ取るスペースがありません。
幸せを感じ取るスペースを作るには、不足ある事を受け入れることが一番。受け入れた分だけ心にホッとしたスペースが生まれて、今ある幸せを感じ取るゆとりが生じるのでしょうから。
又、言い訳しないで不足を受け入れると、不足はそのままにしておいて満たされていることの方に気が向いていくから不思議です。そして、満たされていることに気付けると、心が穏やかになり自分にも人にも優しくなれそうな気がしてきます。幸せに生きるには、不足あることを受け入れ、今ある幸せを感じ取り心が満たされることが第一条件なのでしょう。

                                        平成24年 6月


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          「 無理をしないで、今、あるもので十分!」




昨年11月に東日本大震災のお見舞いにご来訪された若きブータン国王の振る舞いに胸打たれ「ブータン人の幸福論」という本を読みました。1ヶ月前に読んだ時は、何となく淡々と読み終わったのですが、1ヶ月経った今、なぜか気になって読み直しこの独り言を書いています。
 ブータンという国は、人口70万人のヒマラヤ辺境の小国で、失業率が10%にもなる経済的にも豊かでない国です。しかし、全国民の97%が幸せを感じて暮らしている国なのです。

 ブータン人の幸せは、精神性を尊ぶチベット仏教の教えが原点になっているようです。
現世の幸不幸は、過去世の自分の善悪の業(カルマ)に応じて決まっていると信じていますから、失業しても離婚してもどんな結果だとしても、その人の持って生まれた運命だから仕方がないと受け入れます。自分の出来る事をした結果だからそれでいいと思っています。もっと頑張らなくてはいけなかったと自分を責めたり罰するような事はしません。欲にかられてガツガツしても、運命に応じたものしか手にする事は出来ないと思っていますから、無理はしません。

 だからと言って、運命に依存して何もしないのではありません。
運が悪く生まれて来ても、現世で善い事をすると来世の運が良くなり、善い事をしないでいるといつまでも悩み苦しみの輪廻転生を繰り返さねばならないと信じていますから、徳を積み人を幸せにする努力をするのです。しかし、その努力は無理をしない喜んでする努力なのです。
ブータンの人達にあなたは幸せですかと質問すると「あなたが幸せなら私も幸せです」と答えるそうです。毎朝起きたら仕事の事よりも先ず、精霊や仏に跪きお経を唱え瞑想をします。
そして、今日一日、人を憎まず怒らず羨まず、出会う全ての人に優しくあろうと祈ります。

 先月号では、怒り苦しみは起きた出来事にあるのではなく、そのように受け取る心の弱さにあると書きましたが、起きる出来事さえも自分の業が引き寄せているのかも知れません。
起きた出来事も、その出来事に苦しむのも全部自分のせいだとしたら、どんな出来事であっても自分の持って生まれた運命ですから静かに受け入れていくしかないのでしょう。
きっと、受け入れた分だけ幸せ度が上がり、受け入れない分だけ苦しみが増すのでしょうから。
 
 煩悩を持つ私達は知らず知らずのうちに求め過ぎてしまいがちです。不足を求め続ける貧しさは、本来の貧しさよりずっと苦しいのだと思います。運命に応じたものしか手にする事は出来ないのだとしたら、今、持っているものが自分に必要なもの。無い物ねだりしないで、今、あるもので十分!と与えられた環境を受け入れ、分相応に暮らすのが幸せの秘訣なのでしょう。
そして、分相応とは無気力に生きる事ではなく、今の自分が出来る分相応な無理のない喜びの努力をして、自分の持って生まれた運命を満喫する事でもあるのでしょう。
         
                                        平成24年 5月


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             「 繋がって嬉しかった事!」

先日、大好きな星野富弘さんの「いのちの根」というポストカードを頂きました。
それを読んでいて、ずっと考え続けていた事が繋がりました。
手探りながらもこうやって分かってくると、霧が晴れて目の前が開けてくる感じです。
いい加減なところのある自分ですから、一つの事をあきらめずに考え続ける習慣は大切な事だとつくづく思います。未熟さにめげずに、死ぬまで学び続ける自分でありたいですね。

 私にとって、とても大切な事なので詩的に表現しました。
  
      大切なものを守る為に しなければならない我慢を
      したい我慢に置き換えていこうとする時
   
      失うものがあったとしても 自分がしたい事をしたその事に満足して 
      失った事を許していこうとする時
   
      不足があったとしても 今 満たされている事の大きさに感謝して
      不足を許していこうとする時
   
      そして 人生は諸行無常  
      幾多の思い通りにならないトラブルに じっと耐え
      許していくしかないと覚悟する時
         
      あなたの目の色は深くなり 命の根が深くなっていくのでしょう!

 トラブルは生きる上で、次から次へとやってきて避けて通れないものですが、そのトラブルはどこからくるのかが問題です。外からやってくると思いがちですが、よくよく考えてみますと、思い通りにならない出来事をトラブルと捉えてしまう内なる心のなせる技なのです。
そして、怒り苦しみのの大きさは、出来事にあるのではなく、それを受け止める心のひ弱さにあるのです。人生は諸行無常。常に変化し続けて何が起きても不思議はないのですから、出来事を人生の自然な一部分として静かに受け入れ、許していこうと覚悟するしかないのですね。
そして、命の根を深くして心強く生きるには、先ず、自分の弱さから許していくのですね。 この事に繋がったことが嬉しいですね!

                                   平成24年 4月

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             「 したい事をする怖れ!」



先月号の「面白い心の連鎖」の反響について書いてみたいと思います。
「最近したい事をしていませんね」「した方が良いと思っても諦めてしまいますね」「してはいけないと思ってしまうんですよ」等々。したいと思っても躊躇してしまう感じでしょうか?
 
 私も以前は、した方が良いと思っても躊躇する事が多かったです。
それはしたいと思った事よりも、うまくいくだろうかと結果が気になって躊躇していました。
今は結果を怖れるよりも、したいと思った自分の思いを大切にするようになりました。
大切にするようになった一番の理由は、私が生きているのは、「今、この瞬間!」だけ。
過去は記憶でしかなく、未来は想像というイメージでしかないと実感出来たからでしょう。
満たされぬ苦しみがあったとしても、今、この瞬間、瞬間を大切に味わって生きるしかないと気付いたからでもあるのでしょう。傷付くのを怖れて記憶や想像の中で生きるほど、人生はつまらないものでもなく、又、人生は長くないという事を実感出来た事に感謝ですね。

 そこで「したい」とか「した方が良い」と思った瞬間に生じる怖れについて、私の学んできた事を整理しますと、大きく分けて二つの理由が考えられます。
 一つは、失敗に対する3つの怖れです。
  1,努力した事が無駄になる、くたびれ損の怖れ
  2,失敗した時の他人の評価(他人の目)への怖れ(成功しても他人の目への怖れは残る)
  3,出来ない自分への自己嫌悪(自分の目)への怖れ(出来ても新たな怖れは生じる)
過去の失敗の記憶を引きずり、起きてもいない未来の失敗を想像して怖れてしまうのでしょう。

 そして、もう一つは、子供時代に植え付けられた罪悪感・自責の念による怖れです。
極論しますと、親は子供を批判するか、褒める事でコントロールしがちです。
批判する事が得意な親に育てられた子は、知らず知らずの内に自責の念が植え付けられます。多感な子供時代にダメ出しされて傷付いた子は、自分のしたい事をしてはダメだというセルフイメージを持ってしまいます。この植え付けられた自責の念は、人生に甚大な影響を与えます。
この自責の念と失敗の怖れを克服していく過程で、どれだけ「ダメな自分を許して、したい事をするか!」が、私達に与えられた今生の人生のテーマとも言えるのではないでしょうか?

 そして、怖れを克服しながらもしたい事をする時、忘れてはならない大切な事があります。
したい事をした結果、周りの人に迷惑をかけたり不興を買ったとしたら、それはわがままなのかも知れないと自戒する必要があるのでしょう。「したい事が一番で、結果は二番!」ですが、自分の心が喜ぶしたい事をする時、自分も人も幸せになる工夫を忘れてはなりませんね!

                                      平成24年 3月


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             「 面白い心の連鎖!」
       
 


今、私の中で面白い心の連鎖が起きています。
世間体や我慢する事を一旦脇に置いて、自分の心がしたいと思った事を優先して過ごした結果、辛くて後ろ向きになりがちな我慢が、それほど辛くない前向きな我慢に変化してきました。
例えば、先月号にも書きましたが、大切な人間関係が壊れないよう小言や文句を我慢しなければという思いが、良好な関係を守り楽しく過ごす為に我慢したいと変化してきたようにです。
そして、「しなければならない我慢」が「したい我慢」にスーッと入っていける時、今、自分が何を大切にして、何を望んでいるのかを気付かせてくれます。 

 自分の大切にしている望みが満たされると、自分がそれほど望んでいないその他の望みまで完璧に満たそうという思いは弱まってきます。108つの煩悩を持つ人間にとって満たされぬ苦しみがあるのは当たり前の事ですが、その苦しみが弱まり穏やかな時間が過ぎていきます。
そして、自分が望む事をした結果、失うものがあったとしても、したい事をしたその事に満足して「まぁいいか!」と静かに思えてきます。

 「まぁいいか!」という思いで過ごしていると、不足があったとしても、今、満たされている事への感謝の念が強くなり「自分はこれでいい!」という肯定感が生じてきます。
他の人と比べて満たされていなくても「自分は自分、人は人!」という思いが強まり、例え、親子関係が望む通りにいかなくても、お互いが大病することもなく過ごせている事に感謝です。特別な能力が備わっていなくても、与えられた条件で自分が出来る事をやっていけばいいんだと思える事に感謝です。世間の注目を浴びるような仕事ではないけれど、今の仕事に精を出している自分に対して「自分はこれでいい!」という勇気が湧いてきます。
 
 「自分はこれでいい!」という思いで過ごしていると、自分の未熟さをなんとかしなければという焦りが薄れ「ゆっくりでいい!」というゆとりが生じて、カメの歩みのごとく自分のペースで自分らしくコツコツとやっていこうと思えてきます。

 「我慢するのはイヤだ」「満たされないのはイヤだ」という思いが、「我慢するのもいい」「満たされなくてもいい」と変化して、「まぁいいか」から「自分はこれでいい」になり、足りないものを急いで手に入れなければという焦りが薄れ「ゆっくりでいい」へと変化してきます。
 今まで我慢して生きてきたように思っていましたが、結構、自由に生きており、足りないものがあるように思っていましたが、結構、満たされていた事に気付かされる面白い心の連鎖が起きています。自分の心が喜ぶ事を優先して、自分らしくゆっくりと生きていけそうです。

                                      平成24年2月

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        「しなければならない我慢と、したい我慢! 」



色々な事が起きた一年を乗り越えて、新しい年が明けました。
私達は旧年をリセットして、新年を迎えるという良い習慣を持っています。
皆様におかれましては、どのようにリセットして新年をお迎えになられたでしょうか?
「一年の計は元旦にあり」と申します。リセット後の一年の計はどのようなものでしょうか?
 
 昨年の新年のご挨拶は『この一年、あなたは行動の動機を人に嫌われないよう怖れをベースにした「しなければならない事」に置いていきますか? それとも愛をベースにした、人に喜ばれると嬉しい「したい事」に置いて楽しんでいきますか?』という問いかけで始まりました。

 そこで私は、昨年1年間365日、出来る限り「したい事」を意識して過ごしました。
したい事をすればするほど、健康の為に食べ過ぎを我慢したり、人間関係を悪化させない為に小言や文句を我慢する大切さに気付かされました。誰だって我慢して生きているんだとお叱りを受けそうですが、したい事を優先して過ごした結果、私にとって大切な学びとなりました。 
 そして、我慢には2種類の我慢がある事に気付きました。
病気になるのが怖いので食べ過ぎを「我慢しなければならない」と思うか、それとも、健康を守り元気に過ごしたいので「我慢したい」と思うか。
人間関係が壊れるのが怖いので小言や文句を「我慢しなければならない」と思うか、それとも、良好な関係を守り楽しく過ごしたいので「我慢したい」と思うか。
このように我慢には、「しなければならない我慢」と「したい我慢」があるのですね。
今までの私は、我慢は辛い事、卑屈な事と捉えていましたから、目から鱗が落ちる思いです。
 
 幸せな人生とは、自分がワクワクする事やしたい事を中心に生活していて、気の進まない事やしたくない事はやらない。その結果、失うものがあったとしても、したい事をしたその事に満足して「まぁいいか!」と微笑む。(但し、分相応を忘れないでいる事は大切ですね)
そして、特別な事や贅沢な事をしなくても、只、そこにいるだけで楽しく、その人といるだけで心が満たされ、安心して自分らしく過ごせる居場所を持っている状態を言うのでしょう。

 この一年、沢山出会うであろう「しなければならない我慢」を「したい我慢」に置き換えられたら、予断を許さない時代ではありますが、楽しく元気に過ごせるような気がします。
 新年が皆様にとりまして、豊かで楽しい一年でありますよう心から念じております。

                                   平成24年 元旦



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