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第179号「暮れの一息」平成26年12月
第178号「わが家の先生パート10!」平成26年11月
第177号「人生の最上級者!」平成26年10月
第176号「今年の夏に気付いた、楽しく生きるヒント!」平成26年9月
第175号「人間関係を良好に保つ分岐点!」平成26年8月
第174号「生きる目標と目的の違い!」平成26年7月
第173号「二人の自分!」平成26年6月
第172号「大切なものを守る為に!」平成26年5月
第171号「両方尊重して両方受け入れる!」平成26年4月
第170号「選択の基準!」平成26年3月
第169号「あなたの立ち戻る原点はどこですか?」平成26年2月
第168号「大切な二つの事!」平成26年1月







                 「暮れの一息」
       
 


暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
          「ふうーっ!・・・・」
 ひとつ、変な事を お聞きして良いですか?
あなたにとってこの一年は、どのような一年だったのでしょうか?
良き出会いや得る事の多かった一年だったのでしょうか?
それとも、悲しい別れや失う事の多かった一年だったのでしょうか?
           「・・・・・・・・?」
 私にとっては、去年に続いて悲しい別れがありました。
17年間、共に暮らした「わが家の先生トム君」が亡くなりました。
数え切れない程の喜びと癒しを、そして、私の先生として深い学びを与えてくれました。
            「・・・・・・・・・」
 人は一生のうちに、何回、恥も外聞も無く本気で泣くのでしょう?
トムの亡骸を抱きしめて、赤子のように泣きじゃくりました。
きっと、大の大人が 大声で泣きじゃくる姿は 無様だったでしょう。
人が本気で泣く時、そんな事はどうでも良くなるのですね。
           「・・・・・・・・・」
 2日間のお通夜で、トムと過ごした17年間を振り返りました。
6年前、最初の皮膚がんの手術をした時、この別れを覚悟した事を自分に言い聞かせました。
その後、4回の皮膚がんの再発と他の病気を併発しても、トムは踏ん張ってくれました。
今年の始めの頃は、トム頑張れ!トム頑張れ!と声をかけていました。
しかし、全盲になり、耳も鼻も利かず、まともに歩けず、そして、痛みに耐えていたトム。
秋口に入った頃から、もう十分だから頑張らなくていいよと言っている自分がいました。
            「・・・・・・・・・」
 トムは亡くなりましたが、今、私の心の中に住んでくれています。
きっと、この先もずっと、私の心の中に住み続けてくれる事でしょう。
            「・・・・・・・・・」
17年間の思いに心から感謝して、トムの冥福を祈りながら 新しい年を迎えようと思います。
            「・・・・・・・・!」
           この一年 ありがとうございました。

                               平成26年 暮れ




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              「わが家の先生パート10!」
       
 


今月はトム君の17歳の誕生月です。人間でいうと100歳超だそうです。 
今、トムの世話をする事で1日が回っています。トムは、生きている事を実感する機能が殆ど不能になってきています。両目は100%見えません。全盲です。耳と鼻も殆ど機能しません。腎臓が悪く、足に腫瘍が出来て破裂して抗生物質や点滴治療、皮膚がダメになった所を特殊薬品で焼いて腫瘍の広がりを止める治療とかをしています。その甲斐あって、いったんは収まりましたが、二ヶ月も経たずに又、4回目の腫瘍が出来、同じ治療を繰り返しています。
日中は殆ど寝ていますが、私が帰ると、何かを感じたようにヨタヨタと起き上がり、私を捜す
そぶりを見せます。抱きかかえてやると、嬉しそうに抱かれたままじっとしています。

 足も朝起きた時はダメですが、しばらくマッサージをしてやるとヨタヨタと少し歩けます。
後ろ足がダメなのです。歩く機能がダメになるのを遅らせる為に倒れても転んでも、なるべく
歩かせるようにしています。四肢を震えさせながら立ちすくんでいる姿を見ていると、生きよ
うとする必死さが伝わってきて、鳥肌が立ってしまいます。そして、目頭が熱くなります。

 認知症になってからは、殆ど昼間は寝ていて、夜中にいざって布団から這い出ようとします。
ひどい時には1時間おき位に、歩けないのに、いざって歩こうとします。
そのたびに起こされます。お陰で、数日おきに睡眠不足になってしまいます。
オシッコやウンチは、どんなに注意しても、おしめをしていても、ちょっとした隙に家の中で
されてしまいます。家の中でされないよう、定期的に庭に連れ出してさせるようにしています
が、中々してくれません。やっとしてくれた時、トムに感謝している自分に可笑しくなります。

 どんなに世話をしていても、目の見えない認知症のトムからの反応は期待出来ません。
こんなに世話してくれてありがとうとか、人間みたいに健康保険が効かないのによくもまあ最
善の治療を受けさせてくれる。本当にありがたいなぁなんて、言ってはくれません。
トムからの評価や見返りを期待しないで、今の自分が出来る最善を尽くしているだけです。
相手がどう思うか、どうするかは、こちらの課題ではありません。こちらがしてあげられる事
をしているのです。自分を犠牲にして相手の期待に応えようとしているのでもありません。

 トムの世話をしていて気付いた事があります。 
自分がトムの為にしてあげられる、その事が、純粋に嬉しいのです。
そんな時、トムだけでなく人にも同じように見返りを求めないで、自分のしてあげられる事を
静かに出来たら気持ちがいいだろうなぁと気付かされます。それは人間関係の極意ですね!
そんな大切な事を気付かせてくれるトム君は、どんな状態になってもわが家の先生です。

                                    平成26年 11月




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                「人生の最上級者!」
       
 


今年の5月のお茶会で自分の中の表面意識と深層意識の存在に気付いてから、ずっと、二つの意識の折り合いの付け方を試行錯誤しながら今日まで過ごしてきました。
そして、先月号に書きましたように「外側に振り回される表面意識ではなく、穏やかな深層意識に基準を置き、穏やかな振る舞いを心がけたら、全ての感情は外側のせいではなく、自分の内側の表面意識と深層意識の折り合いの付け方にある」と気付き一歩前進しました。そして、折り合いをうまく付ける為には、深層意識を優位にする事が大切だという事に気付きました。

 深層意識を優位にするには、自分をどれ位大好きかという事が大きく影響しているのです。
これは、難しい学説でも立派な定説でもなく、あくまでも小さな私の個人的見解です。(笑)
うまくやった時だけ、好きになるのはまだ初心者。
目標に向かって努力したり、頑張っている自分を好きになるのも初心者。
人と比較して得意な事を自慢している時も、まだまだ初心者。
ましてや、嘘をついてまで自慢するなんて、初心者以下。

うまくやれなかった時、自分を責めるけど、逃げないのは中級者。
努力をサボった時、ダメだなぁと思うけど、又、頑張ろうと思えるのも中級者。
人と比較して得意な事を、自慢してはいけないなぁと思えるのも中級者。
嘘をついてまで自慢するなんて、恥だと思うのは中級の上。

うまくやれなかった時、言い訳しないでそのまんま受け入れられるのが上級者。
努力をサボった時、サボった自分を見捨てないのが上級者。
人と比較して得意だとか不得意だとか、人と比較するのは無意味だと思えるのが上級者。
嘘をついてまで自慢する必要を、感じないのが上級者。

うまくやれなかった時、どんなに無様な自分でも大好きなのが最上級者。
努力をサボった時、サボった自分でも大好きなのが最上級者。
人と比較して自慢した時、そんな格好悪い自分でも大好きなのが最上級者。
嘘をついてまで自慢した時、そんな小さな自分でも大好きなのが最上級者。

 最上級者くらい自分が大好きになると深層意識が優位になり、どんなに無様な自分に出会っても自分は自分これでいいと受け入れる度合いが高くなってきます。自分が大好きですから人からどんな対応をされても怒る必要がなく、いつも微笑んでいる。そんな穏やかな人が、人生の最上級者。身近に思うところでは「宮沢賢治の雨ニモマケズ・・・」みたいな人でしょうか!
   
                                    平成26年10月




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         「今年の夏に気付いた、楽しく生きるヒント!」
       
 


足りない事に執着して不快になったら、先ず笑顔を作り、今、満たされている事を三つ数え上げ、心の中でありがとうと呟いてみる。そうすると大抵の機嫌はそれで直る!
大事な事が満たされていたら、その他の事は大目に見て問題の有無を幸せの基準にしない。
何の問題もなく、うまく行く事が幸せと考えがちですが、問題のない人生なんてあり得ません。
人生が不条理の連続である事を認め、問題なくうまくいったらありがとうと感謝し、問題があ
ったら自分が学ぶ為に必要な事と受け止めるだけ。自分にとって大事な事が満たされ感謝して
いたら、その他の事で一つや二つ問題があっても、幸せを感じ取る邪魔にはならないはずです。
足りない事に執着して不快になるより、満たされている事を感じ取り、ありがとうと感謝し続
けるその先に、求め過ぎない幸せが待っている。と思えたら生きる事が嬉しくなってきます。
 
 人の考えや選択に正誤はなく、只、違っているだけ!
先ず、人間関係の勘違いに気付く。人は人の期待に応える為に生きているのではく、自分の考
えの正しさを持ち、それを拠り所に自分の人生を充実させる為に生きている事を理解し認める。
正しさに違いがある事を認めたら、戸惑う事があっても非難しないで受け入れ易くなります。
選択が違うだけだと思えたら、正しいかどうかよりその選択の違いを味わい楽しめます。
日頃から正しくあらねばならない、間違った選択をしてはいけないと思っていますから、つい
つい、正誤のレッテルを貼って、喜んだり不快になったりします。しかし、正誤という考え方
を捨てて、只、違っているだけと思えたら、人間関係や選択する事がずいぶんと楽になります。

 全ての感情は、そのように選択した自分のせいだから、愉快になる責任は自分にある!
あの人がこんな事をしたから、嬉しいとか不快になったとか思いがちですが、どんな事が起き
ても、愉快・不快になる選択は全て自分の選択の結果ですから、誰のせいでもありません。
誰かのせいにして、不快になった腹いせに怒っても、相手をコントロールする為に怒っても、
問題が解決 する事は少なく、むしろ大きくして不快さが増し、結局は自分が傷つくだけです。
基準 を外側に振り回される表面意識ではなく、穏やかな深層意識に置き、穏やかな振る舞いを心がけたら、全ての感情は外側のせいではなく、自分の内側の表面意識と深層意識の折り合いの付け方にあると思えて、誰のせいでもなく自分のせいとスッキリします。

 せっかくの人生、失敗を避け無難に生きるより、とりあえずしたい事を一生懸命する!
何かをする時、失敗して傷付く事を怖れたり、その選択が間違いだったらイヤだなと不安にか
られたりします。そんな時、一つや二つイヤな事があっても当たり前。選択に正誤はなく、只、
違った選択の体験をしているだけと思えたら、したい事がスッと楽に出来そうです。
そして、全ての事は心を高める為にあると思えたら、なんだか生きる事が楽しくなってきます。

                                   平成26年 9月




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             「人間関係を良好に保つ分岐点!」



6月号で表面意識にさざ波や波紋が生じるのは仕方がない事だと気付いて2ヶ月を過ごしました。過ごして更に分かった事は、さざ波や波紋に強弱がつく理由が分かった事です。
自分の都合や期待が、自己中100%に近づけば近づく程、さざ波等は強くなるのです。
逆に、相手中心に考えている時ほど、さざ波等は弱くなるのが分かりました。

 他者に何かを求めたり期待する事は、人間関係を良好にする良い刺激となります。
なぜなら、人は期待される事により、自分の存在価値を強く自覚する事が出来るからです。
求め合い期待し合う事により、お互いの必要度を認識し人間関係は深くなって行くのでしょう。
しかし、人は関係が深くなればなる程、これ位はいいだろうと求め過ぎてしまいがちです。
期待し合う事は、関係を深める為の良い刺激なのに、つい求め過ぎて関係を壊してしまいます。

 そこで考える一つの事は、求め過ぎる一歩手前の丁度良い分岐点はどこなのでしょう。
人間関係の始めの頃は、遠慮もあり一定の距離感を保ちます。
この時は自己中度はとても低く、相手中心度の方が大きいはずです。
しかし、時が過ぎて一定の距離感を超えた時、甘えが生じて自己中度は上がります。
求め過ぎのレベルに入る時というのは、自己中50%を超えた時ではないかと思います。
自分の事50%、相手の事50%が、人間関係を良好に保つ分岐点ではないかと思います。
数字で言うと簡単ですが、実践は難しいと思います。しかし、一つの基準として意識している
のと、していないのとでは、大きな違いが生じると思います。

 この基準を計る一つの事は、当たり前と思うか、ありがたいと思うかの違いだと思います。
当たり前と思ったら、不満が生じ易く一気に自己中度が50%を超えてしまうでしょう。あり
がたいと思うと、満たされている事に気付き易く相手中度が50%を保てるのだと思います。
そして、もう一つの基準は、人に与えたものしか得られない事を認識する事です。
相手から50%与えて欲しかったら、先ず自分が51%以上与える事だと思います。
不満が生じて不快になったら、自分は今、相手にどれだけ与えているのかと自分に問う事です。

 そして、相手に何かをしてあげる時、大事な事は、見返りを求めてではなく、自分の喜びの
為にするという意識を忘れてはなりませんね。自分の期待と相手の思いには必ずズレがありますから、見返りを求めてしていたら、必ず不満にぶつかります。相手に何かをして喜ばれる事
とは、自分の存在価値を自覚する最たるものです。相手の為ではなく自分を喜ばす為にしてい
るんだという意識があったら楽しくなるでしょうね。見返りを求めないで相手の為にする事が、
どれだけ気持ちの良いものなのかを、私は今、認知症のトムの世話をしていて知りましたから!
               
                                     平成26年 8月




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              「生きる目標と目的の違い!」
       
 


先月の茶会で、自分を見つめて、無様な自分を許している事に気付いて一ヶ月が経ちました。
この一ヶ月、自分を見つめ続けました。批判しないで只、じっと自分を見つめ続けました。
無様な自分に出会っても、それが自分の持って生まれた実力と受け入れようと努力しました。
全部が全部、受け入れられた訳ではありませんが、批判しないで見つめていると、確かに無様で欠点はあるけれど、良い所もある自分です。そうそう捨てたもんじゃないと嬉しくなります。
自分の欠点に焦点を当てて、なんとかしなくてはと、もがいている自分に気付きました。

 その一番の理由は、マスコミや周りで活躍をしている人達を見るにつけ、あの人達のように
なるには、特別でなければダメだという思いが強かったのでしょう。ここまで生きてきて、今
更、自分を取り替える事は出来ません。このありのままの自分で生きて行くしかないですね。
自分に与えられているものに不満を言うより、今、与えられているものに感謝して生かす。
無い物ねだりをするのではなく、今ある幸せを感じ取り、これで十分と感謝し続けるその先に、
求め過ぎない幸せがあるのでしょう。それが分かった瞬間、特別でなくていいと思いました。
今まで、どこか特別であろう。特別な自分として認めて貰おうと力んで生きてきました。
ノーベル賞を取ったり、マスコミを賑わす人達はごくわずかです。周りを見たらみんな普通で
生きている。特別を目標にしても良いけど、目的にしたら疲れてしまいます。普通の自分で十
分と受け入れ、今の自分の最善を尽くす事を目的にするのです。結果よりどう生きたかが大切。

 心を高める為に生まれて来た私達は、高みの悟りを目標としますが、悟りに到達する事が目
的ではない。心を高め続ける修行自体が人生の目的。どこまで悟ったかに意味があるのではなく、今ここを真剣に丁寧に心を高め続けた事に意味があり、たどり着いたところが、その人の
人生の完結点。悟る事に意味があるとすれば、高みの悟りに到達出来なかった人の人生は意味がなかった事になり、殆どの人は失敗の人生になる。そんな事は到底受け入れられない。
お釈迦様だらけの世の中なんて不気味そのものでしかない。普通の人なりに、60点の人なり
に、今の自分をOKと受け入れ、100点を目指して修行する事に人生の意味と目的があるの
でしょう。目標と目的を明確にしないと、生きる事がゴチャゴチャになってしまいます。

 相手の為に何かをする事にも、目標と目的の違いがある事に気付きました。
相手の為に自分の出来る最善を尽くしても、相手がそれをどう評価し、どう受け入れてくれる
かは相手の課題で、自分にはどうする事も出来ない。相手の期待に応える事が目的となったら、
相手の評価に振り回され、傷つく事も多くなる。相手の期待に応えようとするのは目標で、相
手の為に自分の最善を尽くすのが目的となったら、相手の評価を手放し自分の出来る最善を尽
くすだけです。目標と目的を明確に区分けする事が、スッキリと生きていくコツなのでしょう。

                                    平成26年 7月





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                   「二人の自分!」
       
 


ほぼ毎月1回、30年近く続いている茶会があります。ここまで続いている理由は、只、只、がさつな私を見放さないで見守って頂ける、お師匠さんの粘り強さのお陰だと感謝しています。
茶会では、茶室に端座して茶釜の音に耳を澄まし、茶筅の軽やかな響きを感じながら、過ごし来た一ヶ月を静かに振り返る習慣がいつの間にか身に付いてきています。

 今回は、ある事で怒ってしまった事が頭の中に浮かびました。
この時、怒っている無様な自分をじっと見ている、もう一人の自分がいる事に気付きました。
自分の中に二人の自分がいる、不思議な感覚でした。怒らないように心がけているにも関わら
ず、怒ってしまう自分を仕方がないなぁと見ている、もう一人の自分がいました。
今までであれば、怒った事の言い訳や自分の正当性を主張して自己弁護をしていたのに、今回は事情はどうであれ、怒った事を静かに反省している自分がいました。
ある意味、自分が自分を許している感覚でした。

 その時、表面意識の自分と深層意識の自分とを思いました。
現象という刺激に対して表面意識の自分が反応し、深層意識の自分はそれをただじっと見てい
るだけ。批判することなくじっと見守って、受け入れてくれている感覚でした。
表面意識の反応を川の流れに例えると、風が吹けば川面にはさざ波が立ち、石を投げ込まれれば石の大きさに応じた波紋が生じる。さざ波や波紋が生じる事は自然な事で、それを止めるの
は無理な事です。しかし、深層意識は深い川底から、川面のざわつきをじっと見守り、時に寄
り添い、時に交わり合いながら、共に終着の海へと静かに流れ行く感じでしょうか。

 風が吹いたらさざ波が立ち、石を投げ込まれたら波紋が生じる。それが自然なのです。
イヤな事が起きたら怒って良いのです。怒りを我慢するのではなく、起きた怒りがエスカレー
トしないよう、深層意識が「お〜い!表面意識の自分よ大丈夫か?」と声をかけてやれば良い
のでしょう。その声に応えて貰うには、表面意識がどんなに無様な事をしようとも批判しない。
只、受け入れてやるだけ。お互いがお互いの一部であり全体である事を思い、日頃から内なる
会話を通じ、二人の自分との折り合いを良くし、繋がりを深めておく事が大切なのでしょう。
ざわつく原因の風や石から離れて、二人の自分との会話に専念すると良いのでしょう。

 表面意識がどんなに無様な事をしようとも、じっと見守り、只、受け入れるだけ。
そして、時には表面意識の気分転換になる何かをしてあげると良いのでしょう。
お酒でも良いし、食べるのでも良いし、これが出来たら「まぁいいか!」と思える気分転換を
して、ざわつきを収めると良いのでしょう。表面意識はそんなに強くないですからね。

                                    平成26年 6月




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               「大切なものを守る為に!」
       
 


両方尊重して両方受け入れていても、私の周りで相変わらずイヤな事や思い通りにならない事が起きています。でも、人と人との間でお互いが自分の正しさを認めて貰おうとせめぎ合っているのですから、自分だけ思い通りにしようというのは無理な話しなのですね。
最近は思い通りにならない中にあっても、自分の対応が少し変わってきたような気がします。思い通りにならない事を全部なんとかしようとするのではなく、今の自分に大切なものと大切でないものとに区分けして、対処するようになった事が大きいのかも知れません。

 大切でないものは、サラリと手放し忘れる。そうするようになって分かった事ですが、思い
通りにならない事の大半は、どうでも良い事だったのです。どうでも良い事をなんとかしよう
としていたのは、よくよく考えてみますと、大切なものがうまくいっていない穴埋めだったの
です。しかし、大切でない事の穴埋めをどれだけしたとしても、心は満たされません。
満たされない割には、結構、時間とエネルギーを消耗する骨折り損だったのです。
枝葉ではなく、メインの大切なものが満たされる事が、何より大切なのです。

 大切なものに集中していると、他の事はどうでも良くなってきます。
大切なものを守る為に努力する事が、相手の為にしてやっているとか、何かの為にさせられて
いるという捉え方ではなく、自分の為にしているのだと明確に感じられるのです。
努力が苦しいとか我慢するという事ではなく、心地良いのです。
大切なものを守る為に集中して努力している自分が、誇らしく思えるのです。
大切なものを守る為の自分の選択に納得して、今を生き、今を楽しんでいたら、明日に何が待
ち受けていようともそれを受け入れ、それなりにちゃんと生きていける実感がするのです。

 そして、怒り苦しみは結果で、原因は自分の都合や期待にあるのだと改めて実感出来ます。
怒り苦しむ度にその原因は、自分の都合や期待である事を自覚し弱める工夫をする。その為に不足している事はいじらずに満たされている事に感謝し、その中で心を満たしていくのです。
宇宙ロケットが大気圏を脱出する時、強力なG加重に耐えなければないよう、私達も従来の
習慣から脱出するには、強力なG加重に耐える必要があるのでしょう。耐えられない人は、
思い通りにならない事に振り回され、感情に支配される人生を送る事になるのでしょう。
 
 『人間最高の生き様は無我に徹する事である。心底に本気な祈りがないから利己心と恐怖心
の混合感でいい加減な毎日を送るのです。瞑想と祈りの生活を真剣に持ち、日常実践の中で無我に徹して生きるのです』と、飯塚会長はおっしゃいました。大切なものを守る為に自我の主
張を控えて、思いやりの心を増やし、心地良い喜びの努力に集中していこうと思います。

                                     平成26年 5月



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         「両方尊重して両方受け入れる!」
       
 


3月は第3週の日曜日から第4週の日曜日にかけて、所属するゴルフクラブの理事長杯の予選ラウンドがありました。1週目で60位タイまで、2週目で32位までの人が予選通過です。
私は1週目で35位で予選通過。従来のパターンですと35位あたりの人は、大体上位の人を抜ききれず2次予選は通過出来ないのが普通です。中々、勝ち上がれないのです。

 今回、私は2次予選に際して自分に1つのテーマを与えました。
ミスショットしても、後悔しない。ミスったことを引きずって次のショットをしない。
ショット毎に、ミスショットの不安を持たずに自分の出来る事、するべき事に集中して全力投
球すると決めました。凄い事ではなく今の自分の出来る事をきっちりやろうと決めました。
そして、精一杯やったのだから予選敗退しても仕方がないという言い訳はしないと決めました。
カットラインをオーバーしようが、全力を尽くし最後の最後まで諦めないと決めました。

 ラウンド中、後悔がなかった訳ではありませんが、とにかく目の前のショット、ショットに
集中して全力投球する事を心がけました。
しかし、その日はゴルフ以外の事で、朝からイヤな事が起きていました。
気持ちよくラウンドするどころか、ちょっとショッキングな事を背負ってスタートしなければ
なりませんでした。気持ちよくラウンドする条件はかなりのレベルで欠けていました。
今までの私であったら、その出来事に集中力が途切れてそのまま沈没していた事でしょう。

 とにかく、イヤ感や雑念に左右されずに、目の前のするべき事に集中しました。
ミスショット・ミスパットは、何度か当然の事のように起きました。
それでも、ミスした後悔を引きずらぬよう、次のショットに不安を持たぬよう、今に集中して
ラウンドしました。18ホール倦まずたゆまず集中して実践するのは結構の試練でした。
しかし、その甲斐あって、1次予選のスコアを4打縮めて2次予選を通過出来ました。

 ラウンドが終わってホッとした時、スタート前のイヤな思いも解決している事に気付きまし
た。自分が今、目の前のするべき事に全力投球していたら、例え周りが思い通りにしてくれな
い事があったとしても、それは受け入れるだけ。それでいいのだと思っていました。
自分を信じて自分がするべき事をちゃんとしていたら、自分のして欲しい事が正しくて、相手
のしたい事が正しくないというような自己中な思いなんてどうでも良くなっていました。
正しさは、人それぞれにあり、自分の正しさと相手の正しさが両方あってもいい。
「両方尊重して両方受け入れる!」それが人間関係を深める大切な1つの事だと気付きました。
  
                                     平成26年 4月




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                   「選択の基準!」



先月は記録的な大雪に見舞われ、驚くばかりでした。
皆様には、大事に至らなかった事をお祈りするばかりです。
そんな中、心温まる出来事がありました。
中央自動車道談合坂サービスエリアで山崎製パンのトラックの運転手さんが、足止めを余儀なくされた多くの人達に無料でパンを配布したニュースが流れました。

 無料配布は、運転手さんの一存だけでは決められなかった事と思います。
多分、上司の方に連絡を取って決めたのでしょう。「配布してもいいですよ!」と許可を与え
た上司の方は、きっとこの時、無料配布された方達よりも嬉しかったのではないでしょうか。
又、配布する運転手さんも手渡しする時の喜びは例えようもないくらい嬉しかったのでしょう。
パンを作りお金で買って頂いてこそ事業が成り立つ基本原則があり、状況が変わると基本原則
に反して無料で差し上げる。これも事業の基本原則に則った選択であったのだと思います。

 私達が生きるという事は、何かの基準に沿って瞬間瞬間選択をし続ける事なのでしょう。
その選択の結果、うまくいったりいかなかったりしながら、選択の基準が学習されていくので
しょう。学習された選択の基準が、言うなればその人の価値観と言われているのでしょうか?
学習された選択基準で、瞬間瞬間を選択しながらその人の人生は創られて行くのでしょう。
その選択基準を原則や常識の範疇に収まるようにすれば、生きるのは楽なのでしょうが、無難
なだけにワクワクドキドキする事の少ない、あまり面白くないものになるような気がします。
山崎製パンの上司の方や運転手さんの喜びは、中々手にする事は出来ないのだと思います。

 みんながしているからとか、常識だからとか、世の中の決め事だからとか、それにとらわれ
て無難に選択して生きて行くのは、せっかくの1回こっきりの人生を生きるにはもったいない。
例え、世の中の基準から外れていても、他の優秀な人達の基準と違っていても、今の自分の基準で選択し、うまくいこうがいくまいがその結果を逃げないで受け入れる。
「今の自分がしたいと思った事を納得して選択した!」その事を何より大切にしたい。

 うまくいく事を優先するよりも、今の自分が心からしたいと思う事を自由に選択出来る生き
方をしたい。それは正に、自分らしく今を生きている事になるのでしょう。
そんな生き方をしたら、どんな事が起きようとも乗り越える覚悟が揺らぐ事はないのでしょう。
左胸をきつく握りしめ、自分のプライドがしっかり息づいている事を確認しながら、胸を張り、
目を輝かせて生きる事が出来るのでしょう。
 
                                  平成26年 3月




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            「あなたの立ち戻る原点はどこですか? 」



先月、世界的アルピニストの野口健さんの講演会に出席して来ました。
父親の仕事の関係で、ボストンで生まれてからサウジアラビア、日本、エジプト、イギリスと転々とされたそうです。イギリスの高校で先輩を殴り停学処分を受け、日本へ帰国し独り旅に出た際、植村直己氏の「青春を山に賭けて」に出会い感銘を受け、登山を始めたそうです。
その翌年、16歳でヨーロッパ最高峰モンブラン、次いでアフリカ大陸最高峰キリマンジャロの登頂に成功し、登山に自己表現の価値を見出し、世界7大陸最高峰の登頂を決意する。
その後10年の歳月をかけて、25歳で7大陸最高峰世界最年少登頂記録樹立。

 中学高校時代は勉学に熱中出来ず、荒んだ日々を過ごし自他共に認める「落ちこぼれ」でし
た。そんな人間だから、最初から大きな野心があった訳ではなく、落ちこぼれの自分でもコツ
コツやっていけばなんとかなるのではとやり続けた結果、世界最年少記録を手にしたそうです。
 エベレスト初挑戦の時、記者から「成功する自信は?」と、何度も聞かれたが、あんな過酷
な死の山エベレストに対して、自信なんか最初からある訳がない。やってみなければ分からな
いだろうと思ったそうです。その後、何度か失敗をするのですが、そんな事に負けていません。
思いっきり失敗したお陰で、何がどう自分は弱いのかハッキリ見えたとか。死域をさまよいな
がら、しても良い無理と、してはいけない無理の分かれ目がある事を知ったと言われるのです。
とにかく、都合の良い勘違いをし、何の根拠もない自信を持つ自己肯定感の強い人なのです。

 一気に成功したものは一気に失われる。ジワジワと時間をかけたものが揺るぎない成功にな
る。人生は長い。目先の成功や失敗に一喜一憂しない。途中の成功にいい気になって無理をし
て最後に失敗したら、途中の成功が失敗の原因になる。登頂の成功と同じように、人生は求め
過ぎず無理をせず、100点満点中51点が取れたらそれで由とするべきではと言われます。

 私も、何の取り柄もない不安な20代の時、生きる上で何か確かなものを掴みたくて、登山
家が命を賭して過酷な自然に立ち向かう理由を知ろうと山岳小説を読み漁った時期がありまし
た。(一流登山家ほど、最後は遭難死で終わる事を知っていながら、登山をやめないのです)
20代の時の理由が分からないままになっていた疑問が、再度、湧き上がってきました。
そこで、野口さんに「なぜ山に登るのですか?」と愚問を覚悟で質問をさせて頂きました。
『人間というものは、簡単に流れやすいもの。時々そこに戻らないととんでもない所に流れて
行ってしまう。山は死域をさまよいながらも自分の原点に戻れる所』と回答されました。 

 人はずれ易いもの。弱いもの。安易に流れ易いもの。だから、ずれた時に立ち戻れる場所を
持つ必要があるのですね。あなたの立ち戻る場所・原点はどこですか?

                                     平成26年 2月




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              「大切な二つの事! 」
       
 


色々な事があった一年が終わり、新しい年が明けました。
私達は旧年をリセットして、新年を迎えるという良い習慣を持
っています。皆様は、どのようにリセットして新年をお迎えに
なられたでしょうか? 一年の計は元旦にありと申しますが、
リセット後の一年の計はどのようなものでしょうか?

 私は昨年、大切な二つの事に気付きました。
1,「求め過ぎないで静かにいる」という事は、 
求める心を、程よい所で止める事と思っていましたが、
強弱に関係なく、求める心・不足感をベースにしている限り
無理だという事に気付きました。
足りない事・満たされない事に執着して、無い物ねだりをする
のではなく、今、ある幸せを感じ取り、これで十分と感謝し続
けるその先に求め過ぎない静かな幸せがある事に気付きました。

2,「ただ受け入れて静かにいる」という事は、
ただ、受け入れれば良いと思っていましたが、
それでは無理だという事に気付きました。受け入れるには
自信をベースにした健全なセルフイメージが必要なのです。
うまくいってもいかなくても、自分は大丈夫と思える自信。
どんなに無様な自分に出会っても、人からどんな対応をされて
も、自分の価値は変わらないと何の根拠もなく信じられる自信。

 この自信が、健全なセルフイメージを創り、自分を受け入れ
る最強の武器になる。この健全なセルフイメージで、自分をし
っかり受け入れていたら、他人が受け入れているかどうかに大
きな意味は無い。ましてや、受け入れて貰う為に他の誰かのよ
うになるなんてとんでもない事。自分は自分!これでいいと何
の根拠もなく言い切る事が健全なセルフイメージを創り上げる。
この健全なセルフイメージを持ち自分に納得していたら、うま
くいこうがいくまいが、自慢したり、卑屈になる必要はない。
自分は自分。素のままの自分でいいと肯定して生きて行ける!

 この一年、この大切な二つの事をベースに、何度失敗しても
在りたい自分を目指して、演じ続けて行こうと思います。
 新年が皆様にとりまして、豊かで幸せな一年でありますよう
に心から念じております。
                       
                        平成26年 1月





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