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第191号「暮れの一息」平成27年12月
第190号「人生はブランコのようなもの?」平成27年11月
第189号「人生のピーク?!」平成27年10月
第188号「あきらめかけた時に思う事!」平成27年9月
第187号「自己評価を下げない!」平成27年8月
第186号「自分の偉大さに気付く!」平成27年7月
第185号「受け入れるから受け流すへ!」平成27年6月
第184号「一日一生!」平成27年5月
第183号「受け入れる事の大切さ!」平成27年4月
第182号「神様へのお願い!」平成27年3月
第181号「人生は『責任』と『好き』の微妙なバランス!」平成27年2月
第180号「自分をどれだけ許していますか?」平成27年1月







                  「暮れの一息」
       
 


暮れのお忙しいところ 恐縮ですが
   息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
   息を吸って 止めて・・・ ゆっくり 吐いて・・・
           「ふうーっ!・・・・」
 ひとつ、変な事を お聞きして良いですか?
あなたにとってこの一年は、どのような一年だったのでしょうか?
           「・・・・・・・・?」
 私はこの一年「どれだけ無様な自分を受け入れられるか!」をテーマに過ごしました。
自分より優秀な人を見て、自分の力の無さを実感したり。
こんな人間になりたいと願って行動しているが、理想の人間にはほど遠い無様な自分。
思い通りにならない事の繰り返しに、嫌になってやる気を失っていく自分。
全ては自分の選択の結果だと知っていながら、誰かのせいにして言い訳をしている自分。
禁酒・禁煙・ダイエット等に集約される、決めた事が出来ない自分等々・・・・
           「・・・・・・・・・・」
 沢山の無様な自分に出会い、そこから目をそらさず受け止める事から始めました。
今まで誤魔化し、言い訳していましたが、あるがままの自分を見つめました。
何百何千と無様な自分を見つめました。そうしていると、無様さに慣れてくるのですね。
100点の自分でありたいけど、60点の自分でいいと思えてくるのですね。
100点でなくても60点で出来る事・役割はなんだろうと思えてくるのですね。
            「・・・・・・・・・・」
 今の実力で最善を尽くした結果、マイナスがあったとしてもそれはそれでいい。結果より自
分の選択に納得して、自分は自分これでいいと自立して生きる事の大切さに改めて気付きます。
行動した結果手にするものは、失敗でも成功でもない。自分の人生を素晴らしいものにする為
にどうしても必要な体験でしかない。だから、思い通りにならない事に腹を立てたり、後悔す
る必要は無い。静かに受け入れ、その体験から必要な事を学び気付くだけ。
           「・・・・・・・・・・・」
 そして、60点の自分でも命ある有り難さを思うと、心が緩み他人の評価や結果に依存しな
くなる。自分の選択に納得して、したい事をする喜びに感謝していると、心が緩み今ある幸せ
で十分と感謝して、今の自分が出来る良い選択をしたくなる。何があろうと諦めたり後悔しな
いで、自分の人生をどうにかしようとする「挑戦する勇気」を育んで行こうと思えてきます。
           「・・・・・・・・・・・」
 自分は自分これでいいと受け入れ階段を一段上がれた一年でした。ありがとうございました。

                                     平成27暮れ




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           「人生はブランコのようなもの?」
       
 


私は今まで良い事や悪い事が、何かを原因として起きてきているものと思っていました。
その原因の一つは行動で、良い行動をしたら良い事が起き、悪い行動をしたら悪い事が起き、過去・現在そして未来へと平面の延長線上をなぞるように起きてくるものと思っていました。
 先月、ちょっとややこしい悟りに関する本を読んだ時、ガラッとその思いが崩れました。
その内容を要約しますと『人生で起きる良い事・悪い事は振り子のようなもの。良い事の方に
振れたり、悪い事の方に振れたりして、何回も同じ状態を交互に繰り返しているだけの事。
右から左、左から右へと振れているだけの事なのに、片一方の良い状態だけに振れていようと
固執するから生きる事が苦しくなるのだ!』

 いやいや青天の霹靂とは、こういう事を言うのだと思いました。
同時に私の頭の中に、公園で子供が無邪気にブランコを揺らしているイメージが湧きました。
それこそ、前に振れている時が良い状態で、後ろに振れていく時が悪い状態だとしたら・・・
どんなに良い事が起きても、いつまでも続く訳はないのです。良い事のピークに達したら悪い
方へ振れ戻るのです。又、悪い方へ振れても悪い事のピークに達したら、又、必ず良い方へ振
れ戻るのです。起きてくる出来事を平面の延長線上ではなく、前後に揺れるブランコのような
ものと思えたら、生きる事がずいぶん楽になってくるような気がします。

 今まで、自分なりにどんなに努力しても悪い状態が続いたり、そんなに努力した訳でもない
のに良い状態になったりという体験を沢山繰り返してきました。 
今まで何でだろうと思っていた疑問が、ブランコをイメージした瞬間、ふっと解けたような気
がしました。そして、何があろうとそれはそれでいいのだと肩の力がスッと抜けていきました。
どういう行動を取ろうが、必然的にその人にとって大切な学びとして、両方の状態がブランコ
のように繰り返されるだけ。その繰り返しの中で人は学び成長していくのですから。
 
 どんなに仲の良い人間関係あっても、良い状態だけが続く訳ではないのです。悪い状態も当
然に起きるのです。嫌なムードの中で不機嫌になったからといって、一生に関わる大事な決断
をしたり、大喧嘩をしない事です。この低調な状態は片方に振れているだけですから、又、以
前の良い状態に戻るのは間違いないのです。慌てず騒がず静かにやり過ごせば良いのです。
せっかくの大事な人間関係を一時の低調なムードに惑わされて、手放さないと覚悟するのです。

 人生がブランコのようなものだとしたら、うまく行こうが行くまいが、何があろうと受け入
れるのです。悪い状態に負けて、それを嫌い憎んでしまった自分さえも許し受け入れるのです。
それを繰り返しながら、人は学び成長し、自由で穏やかな人生を手に入れていくのでしょう。
    
                                    平成27年11月





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               「人生のピーク?!」
       
 


先月、69歳の誕生日を迎え色々と考える事がありました。
その考えた中で思った事の一つは、私は今まで、人生にはピークがあって加齢と共に坂を下って生きにくくなっていくものだと思っていました。しかし、今、確かに体力は落ちましたが、体力のあった若い時に比べてずいぶんと生き易くなっている事に気付きました。生き易くなった理由は、若い時に比べて何かをする時、不安とか怖れが少なくなっているからだと思います。その理由は、今まで色々な思い通りにならない事に出会って来ましたが、そこから逃げないで、その時の自分の出来る事を一つ一つ対処して乗り越えて来た事が大きいと思います。

 その時その時の自分に出来る事をした結果、手にするものは成功でも失敗でもなく、自分の
人生を素晴らしいものにする為に、どうしても必要な体験でしかないと思うようになりました。
理想の自分ではなく今の実力で行動した結果、その結果にマイナスがあったとしても、それは
それでいい。大事な事は自分の選択に納得して、自分は自分これでいいと自立して生きる事。
自分以上でもなく自分以下でもない。今の自分でOKとあるがままを受け入れる事。
うまくいかない事の方が多かった自分ですが、他人の評価や結果に依存する事が少なくなり、
怖れが弱くなっている自分を見て、自分も気付かないうちに成長していたんだなぁと思います。
人生は優秀さより、コツコツと努力する勤勉さに勝るものはないのだと思います。子供の頃の
神童は途中での勤勉さを欠き、大人になると普通の人と言われる所以がここにあるのでしょう。

 よくよく考えると、若い時分には体力はありましたが、未熟さに臆したりおどおどしたりし
て、わずかばかりの実力さえも発揮出来ずに体力ばかりが空回りしていたような気がします。
確かに今は、加齢と共に体力は落ちましたが、何があろうとそこから逃げないで、落ち着いて
今の実力に応じた力を発揮する能力が身に付きました。そして、何があろうと諦めないで勤勉
にやり続ける限り、人生は必ずどうにかなるもの。うまくいかないことは、諦めたり後悔する
為ではなく、自分の人生をどうにかしようとする勤勉な心を育む為にあるのだと思います。
今、思います。人生にピークなんかなくて只、体力主体に生きる時代と能力を生かして味わう
時代があるだけだと思うようになりました。体力だけで考えるのは、人生の一面でしかない。
それぞれの時代を生き・味わう為に人生はある訳で、ピークなんか無いのだと思います。
 
 尊敬する先生から「人生3分法」という事を教えて頂きました。
学ぶ30年、働く30年、そして、味わう30年と、人生を3分化する考えです。
私は丁度、今は味わう30年の真っ只中にいます。これからの行動基準を、やるべき事から楽
しいか嬉しいかに置いて、ちょっと不良を楽しみながら「不良長寿」を心して、人生のピーク
なんて考えは投げ捨て、ますます明るく元気で勤勉に人生を味わって行こうと思います。

                                         平成27年10月




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           「あきらめかけた時に思う事!」



いよいよ台風シーズンの到来です。この季節になると、いつも頭に浮かぶ事があります。
それは10数年前にテレビで観た、リンゴ農家の台風災害の悲惨なニュースです。
収穫前のリンゴが暴風雨に叩き落とされ、落ちたリンゴを黙々と片づけているニュースです。その年の収穫は、ゼロに近い状態だったのでしょう。それにも関わらず、翌年の収穫に向けて多額の借金をして、準備する農家の人達を思うと胸が痛くなりました。
他の農家の人達も同じです。暴風雨で稲が倒れると困るので、収穫減を覚悟して早めに稲を刈
り、トマトを収穫し、ビニールハウスのビニールを外して、ハウスが壊されるのを避ける。
台風の前には、為すすべがないと言いながら、今、出来る事を手を休めることなくやり続ける。
 
 それと同時に、もう一つ、20数年前に出会った言葉が脳裏をよぎります。
『例え、明日が終わりであっても、私はなお林檎の木を植える』(マルチン・ルター)
その当時は、言葉だけを理解していたのでしょう。それから20数年、思い通りにならない中
で生きてきて、この言葉の重さを強く感じます。私の周りには、頑張っても、頑張ってもどう
にもならない人達がいます。怠けることなく誠実で一生懸命なのに、うまくいかない人達です。
その人達を思うと、改めて、この言葉の重さをひしひしと感じます。

 私達の人生は、思い通りにならない事の連続の中にあるような気がします。
人生は私達に、その中で歯を食いしばり、自分の為すべき事をコツコツとやっていく事を求め
ているのでしょうか? 私も何でもない普通の時は、この先、思い通りにならない事が起きて
も、そこから何かを学んで行こうと前向きな考えでいます。しかし、実際に起きてしまうと簡
単に落ち込んでしまいます。そんな時、人間って弱いものだなあとつくづく思ってしまいます。

 先の見えない生活を毎日、毎日、過ごすようになると、努力する事や頑張る事が無駄に思え
て嫌になってしまう。例え、成果を出す為に努力しても、その努力が成果に結び付くか分から
なくなる。しかし、そんな時こそ、この努力のどれかは必ず実を結ぶと信じる。先が見えない
からと言って全てを投げ出さない。あきらめずに続けていれば必ず報われる日が来ると信じて、
努力の手を休めない。あきらめた瞬間そこで人生は終わってしまいますから、どんなに報われ
なくても、命ある限り人生の途上ではあきらめない。格好良く強く生きられなくても良いから、
格好悪くても弱くても、今、自分が出来る事やるべき事をやり続ければいいんだと思います。

 思い通りにならない事に負け、あきらめそうになった時、台風の前には為すすべがないと言
いながら、手を休めることなく頑張っているお百姓さん達がいる事を思い出そうと思います。
格好悪くても良いから、コツコツと今の自分が出来る最善を尽くしていこうと思います。

                                   平成27年 9月





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             「自己評価を下げない!」



先月の独り言を受けて自分の存在価値や自分の偉大さを自覚した後、それをどのように維持するかが大事だと思いました。1ヶ月試行錯誤しながら分かった事は、正しい自己評価をする事の大切さに気付きました。この自己評価は、過去の体験から知らず知らずの内にいつの間にか身についてしまうもので、正しく評価する事は中々難しい事でもあります。私達はどちらかというと、過去の失敗に囚われて低く評価しがちになります。そして私達の大きな失敗は、自分の欠点と他人の長所を比較して自分にダメレッテルを貼り、必要以上に自己評価を下げてしまう事です。その目的は失敗した時に傷付かないよう、事前に言い訳を作る事なのでしょうか。
  
 そこで、正しく自己評価する上で気を付けなければならない事は。
先ず、うまくいったらいい気になり、うまくいかなかったら落ち込むという短絡的な自己評価
ではなく、結果等に左右されない、冷静かつ客観的に見た自己評価です。
その為に一番大切な事は、どんなに無様な自分でも、自分を見捨てない事だと思います。
自分を見捨てない限り、諦めないで頑張れますから自己評価は必要以上に下がりません。

 次に、見捨てる前にやりがちな事は、失敗した自分を責める事です。どんなに無様な自分に
出会っても自分を責めない。責めるとやる気が消滅して、頑張れなくなるから絶対に責めない。
自分を責めないでいると、理想の自分ではなく、今の自分で出来る事を一つ一つ対処していけ
ますから、結果に関わらず自然に自分を信じる心が生じてきます。しかし、うまくやったから
とか他人への優位性から生じる自信は、本物ではない事に気をつけねばなりません。本物の自
信は目の前の問題から逃げないで、一つ一つ乗り越えていく過程で生じるその人固有のもので、
結果とか他人との比較ではなく、自分は自分これでいいと自分を受け入れる事なのですから。

 本物の自信は、他人の評価や結果に依存しなくなり、何があろうと静かに笑っていられます。
本物の自信を持つと、うまくいかなくても言い訳する必要もなく、誰かのせいにする事もなく、
何があろうと静かに受け入れられます。そして、只、次の改善策を冷静に考えれば良いだけで
すから、自己評価は下がりません。失敗より恐ろしいのは、逃げた自分への報復です。
ふて腐れて自分を信じられず、自分を嫌いになり、最後には自分を見捨ててしまいます。
 
 自分を見捨てない人は、希望も捨てませんから可能性に向かってチャレンジしていきます。
それが出来る人は、自分を大好きな人です。そして、自分を大好きな人は、自分の心に正直に
生きていますから、結果にマイナスがあっても、それはそれでいいと納得出来るのです。そし
て、何があろうと自分を責めないで、静かに笑っていられますから自己評価は下がりません。

                                   平成27年 8月





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              「自分の偉大さに気付く!」
       
 


18年前、二人の子供を残虐な手口で殺した少年Aが大人になって出所してきている。ましてや手記まで出版した。遺族の心痛は察して余りある。そして先日、新たな理由なき殺人犯の無期懲役刑が確定した。その犯人は判決直後『これで又、人が殺せるぞ!』と奇声を発した。
こういうニュースを見る度に、犯罪を犯した背景に何があるのだろうと考える。そして、一つの結論として、親子の関係に問題があったのだろうと推測してやりきれない気持ちで終わる。
  
 そんな時、ある心理学者の本を読み、私の中に衝撃が走りました。要約すると・・・
『単に生きていても、ある人は偉大であり、別の人は偉大ではない。同じように生きていても
その価値は、人によって天と地ほどの違いがある。・・・未熟な親から搾取され、不幸な星の
下に生まれた人は、生きているというだけで偉大なのである。よくもここまで犯罪も犯さず、
自殺もしないで頑張って生き延びてきた。しかし、親から愛された幸せな星の下で生まれた人
は、生きているという事は当たり前の事であり、偉大な事でも何でもない。社会の為に尽くし、
人の為に働いたとしても、それは、ある観点から見れば大した事ではない。・・・小さい頃か
ら未熟な親に心を搾取された人が、今生きているという事の偉大さに気付く事である・・・』

 私は以前には、幸せになるには優秀でなければならないと思っていました。しかし今は、色
々な体験を通して、優秀でなくても幸せになれるのではとようやく思い始めていた矢先です。
優秀でなければ、人の役に立って人から認めて貰えない。人から認められないと幸せになれな
いという今までの思いは、どこから来るのかこの文章を読んで分かったような気がしました。
幼少時代に親から守って貰うどころか搾取された体験を持つ者は、自分を自分で守るしかな
かった。自分を守るとは、親のお気に入りになる事である。親の期待に反したら、機嫌を損ねて
攻撃される。親の庇護の元でしか生きていけないひ弱な幼少時代、親の期待に応え、よい子で
なければ生きていけない。この怖れをいつも心の底に抱えて生きて来たような気がします。
この幼少体験が、優秀で役に立たなければ幸せになれない感を産み出していたのでしょう。

 最近ではこの呪縛から抜け出て、無い物ねだりしないで今の自分の実力で、自分のしたい事、
やるべき事に最善を尽くしていたら、その結果マイナスがあったとしてもそれはそれでいい。
大事な事は、結果より自分の選択に納得して、自分は自分これでいいと自立して生きる事。
自分のしている事に納得していたら、何があろうと静かに受け入れられる。そんな自由な人間
を生きられますから、人の評価は二の次です。自分の心に正直に生きる事が大事なのです。

 未熟な親から心を搾取された人は、役に立とうと立つまいと、今、犯罪も犯さず普通に生き
ているだけで価値があるのです。そして、人の言動に傷付きやすい歪んだ心を植え付けられた
にも関わらず、その傷付きに耐え、幸せになろうと頑張っている自分の偉大さに気付く事です。

                                   平成27年 7月




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            「受け入れるから受け流すへ!」
       
 


ここ最近、自分を許し受け入れる事を優先して生きてきました。
私はどちらかというと、何々するべきという傾向が強いのです。
自分がするべき事をしたら、人も同じようにするべきだと要求しがちな人間です。
電車の中でお年寄りが目の前に立っているのに、ふんぞり返って座っている若者を見たら腹立たしくなります。病院の受付で、人の顔も見ないで事務的に手順を説明する事務員にむかつきます。路地裏から一時停止もしないで、飛び出してくる自転車に腹が立ちます。
外にちょっと出ただけで、不愉快な出来事の嵐に巻き込まれます。

 そこで、そういう出来事に出会っても不愉快にならない方法として受け入れてきたのです。
自分がするべき事をしたからといって、周りに自分の正しさを押しつけない方法としてです。
私も、やるべき事をやらない事があります。そんな時、やらない自分を責めてしまいます。
これが回り回って、周りの思い通りにならない事に腹立たしくなるのです。
そこで先ず、やらない自分や腹を立てている自分を許し受け入れる事を優先してきたのです。

 やらない自分や腹を立てている自分を許す事を繰り返している内に分かった事があります。
イヤな事に出会って腹が立っても自分の感情を一つ一つ上手に許し受け入れるようになれば、
イヤな事が起きようが起きまいがどちらでも良い感じになります。
問題は起きた出来事にあるのではなく、自分の感情の在り方にあるという事です。
そして、その過程で分かった事は、腹を立てた自分を責める事が一番いけないようです。
自分を責めるとやる気のエネルギー源が枯れて諦めてしまいますからね。

 思い通りにならない事を静かに受け入れる自由な人間でありたいと願っている自分が、人の
態度に一々むかついていたら割に合わない事に気付きました。一瞬、ムカッとしてもそれは仕
方がない事として自分を責めない。むかつかされた相手を許すのではなく、
むかついた自分を許すのです。そうすると、むかつきが弱まっていくから不思議です。
人それぞれに正しさ未熟さがあり、それに対して自分の正しさを主張しても意味は無いのです。
むしろ、トラブルを大きくしてしまうだけですから、静かに受け流すのが一番いいのです。
それぞれの正しさに正誤はなく、学びの体験があるだけですから、受け流すのがいいのです。

 理不尽な人生ですから、この先、イヤな事が無くなる事はないのです。今、自分にとって大
事な事が満たされていたら、その他の事は大目に見て全ての願いが満たされる事を幸せの条件にしない。そう覚悟すると、イヤな事を静かに受け流せるのです。

                                     平成27年 6月




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                 「一日一生!」
       
 


ある朝、スケジュールを開いて一ヶ月先、三ヶ月先と、順々に予定をチェックしていました。一年先の予定まで行った時、この予定を順調に消化して行ったとして、自分の人生はこの先どうなるのだろうと考えていました。特に大した事をする訳でもなく、残された人生をこのままで良いのだろうかと考えてしまいます。ちょっと不安と寂しさを感じました。

 世の中には、ノーベル賞を取ったり、オリンピックに出場したり、大きな会社を経営してい
たりと、立派な業績を上げている人達がいます。そんな人達と比べると、なんだか自分がちっ
ぽけな人間のように思えてきます。世の中には、優れた才能を与えられた人達が沢山いるだろ
うし、きっと、その人達には私がどんなに努力しても負けてしまうでしょう。しかし、才能の
違いが歴然とあるのですから、負けてもいいのでしょうね。人それぞれに才能の違いが与え
られているのは、人それぞれに与えられた役割が違うのだと思います。人と比較して優劣を決め
るのではなく、自分固有の与えられた才能をちゃんと生かせているかが大事なのでしょう。

 人には得意不得意、向き不向きがある事を受け入れ、自分に与えられた才能に沿って心のお
もむくままに生きられたら、自由で幸せに生きて行けるのでしょう。逆に自分の思いを我慢し
たり、無理を重ね社会的地位や経済力を手に入れたとしても、きっと幸せではないでしょうね。
無い物ねだりしないで、今の実力でしたい事・やるべき事に最善を尽くしていたら、その結果、
マイナスがあったとしてもそれはそれでいい。大事な事は結果より、失敗を怖れず自分の選択
に納得して、自分は自分これでいいと自立して生きる事。
自分のしたい事を納得して生きると、『思い通りにならない事を静かに受け入れられる』そんな
自由な人間を生きられますから、不安や寂しさを感じる事は少なくなっていくのでしょう。

 一日一生という言葉がありますが、その日その日を一つの人生と考えられたら良いですね。
朝、目覚めて人生が始まり、夜、寝る時に一つの人生が終わる。そう考えると、何十年か先の
為に今日をどう生きるべきとか、人生の意味を難しく問う必要がなくなります。只、シンプル
に今日一日、自分の出来る事をすれば良いのですから、生きるのがなんだか楽になってきます。
理想の自分より現実の自分を安心して生きる事が出来たら、人生の意味が分からなくても、自
分は自分これでいいと納得して、自分らしく生きられるのでしょうね。

 嬉しい事が起きたら素直に喜び、嫌な事が起きたら与えられた運命の一つと受け止め、悠久
たる人生の大河の流れに身を任せ、悠々と漂って行けば良いのです。
嫌な事・未了の事などは前日に置き捨て、毎朝、ゼロにリセットしてから、一日一生と心しな
がら、日々新しい人生をスタートさせられたら面白いでしょうね!

                                   平成27年 5月





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              「受け入れる事の大切さ!」



先日、私の30年来の友人の4冊目の専門書の出版記念のお祝いがありました。
そのお祝いの席で冒頭の挨拶を頼まれました。挨拶の言葉を考えながら気付いた事があります。
私も税理士という職業をしている限り、専門書の一冊位は出版出来たらいいなあという憧れがあります。しかし、友人はこの一冊を書き上げるまでに五年の歳月を費やし、何千時間も机に座り、条文に詰まると膨大な過去の判例を探し出し、気の遠くなるような作業を続けたのです。
机に向かっている姿を何度か見ましたが、なんだかワクワクして書いている様に見えるのです。そういう姿を見ていると、私の頭ではそんな事は辛く苦しく、到底無理だと思いました。

 私にはそんな優秀な頭はないですが、私は当該出版会社の役員をしていますから、その友人の本が日の目を見るお手伝いは出来ます。出版するかどうかの会議の時、身を乗り出して友人の著作に対する思いを滔々と述べ、役員会の出版確定決議を引き出す役割は果たしました。
 例え話にありますが、クレイジーな人は、私はリンカーンであると言う。ノイローゼな人は、
私がリンカーンだったらと言う。健康な人は、私は私、リンカーンはリンカーンと言う。
私は私という人には、私の役割がある事を知り、その役割を受け入れているのでしょう。
今回のお祝いに際して、私は私、人は人という分相応の役割がある事を改めて思いました。 
そして、出来ない事が多いから、せめて今の自分が出来る事位はしっかりやろうと思いました。

 私はつい数年前まで、幸せになるには優秀でなければならないと思っていました。
しかし、今、受け入れる生き方をするようになってから、起きた出来事をどのように受け入れ
るかという事の方が大切だと思うようになりました。人生はそれぞれ、頭の出来も、育った環
境も平等ではなく、不公平で理不尽なのです。幸せに生きるには、この不公平で理不尽な人生
をどう受け入れていくかという、受け入れる能力が大切なのだと思うようになりました。
 自分の今の能力、今いる場所、今あるもの、今おかれている状況等々・・を否定しないで許
し受け入れていく。理想の自分でなく現実の自分で良いと受け入れていく。どんなに無様であ
っても、これが自分の持って生まれた実力と受け入れ、もっと出来るはずという錯覚を投げ捨
て受け入れていく。無様な自分を許し受け入れられるから諦めずに歩き続けて行けるのです。

 理不尽な人生だから不公平で当たり前。いちいち足りない事に執着しない。不足があっても
住む所があって、仕事があって、友人がいて家族がいる。三度三度のご飯も食べられる。目が
見え、しゃべれて、歩けて、そして何より大事な命が無事である。大事な事が満たされていた
ら、その他の事は大目に見て、全ての願いが満たされる事を幸せの基準にしない。そうすると、マイナスの結果を心配しないで、自分の好きな事に全力投球して、今を思いっきり楽しめる。
一つや二つイヤな事があっても、今ある幸せを感じ取る邪魔にはならないですからね!

                                    平成27年 4月




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               「神様へのお願い!」
       
 


あるドラマを観て、心に残ったセリフがあります。
   『この世界には、辛い事が多すぎる。
    それに辛い事があって、その気持ちが癒された人より、
    癒されないまま、救われないままの人の方が多い。
    でも、それがもし、神様にとってこの世界に必要な事なら、
    せめて、その人達に一緒に笑え、心を開ける人を与えて
     あげて下さい!』
 
 この言葉に触れて当初は感動して、自分もそんな与えられる人間になりたいと思いました。
しかし、時が経つにつれ、ちょっと違うかなと思うようになってきました。
そんな人間を与えても何も解決しない。そういう人を与えるより、自分で自分の傷を癒す心を
与えた方が良い。傷付くのは、起きた出来事を自分の望むものではないと否定するからです。
人生は理不尽なもの。大事な事が満たされていたらその他の事は大目に見て、全ての望みが叶う事を幸せの基準にしない。そういう心を与える。飢えた人に魚を与えるのではなく、魚の釣
り方を教えてあげなければ、飢えの解決にはならないという諺が頭の中に浮かびます。

 癒された人達は、辛い事やどうにもならないことが起きても、その事はそのままにして、目
の前にある小さな幸せを拾い上げ、その喜びを感じる習性を持っている。例えば「五体不満足
でも不幸せではない」と、今ある機能を最大限生かして活躍している乙武洋匡さん。
目が見え、しゃべれて、自分の足で歩けて、感動して涙が流せる事。
余命三ヶ月なんて宣告を受けないで済む幸せを感じ取れる人達は、多少頭が悪くても、辛い事が続いても、目の前のささやかな幸せに気付き易いのでしょう。 

 人間ですから色々あるのです。イヤな事もあるけど、良い事もちゃんとあるのです。
108つの煩悩を持って生まれた人間ですから、満たされぬ苦しみがあって当たり前。思い通
りにならなくて当たり前なのです。その思い通りにならない事を静かに受け入れる。そんな自
由な人間でありたい。望んでも望んでも叶わないから望み続ける。只、それだけ。それでいい!

 私の神様へのお願いは、温かい人を与える前に、全てを許し受け入れる心を与えて下さい。
禁酒や禁煙をしようと思っても出来ない自分。気弱で言いたい事が言えずに忸怩たる思いで過ごす自分。失敗が怖くて問題を先延ばしにしたり、決めた事が守れない無様な自分等々・・・。
そんな無様な自分を責めずに、只、許し受け入れる心を与えてあげて下さい。どれだけ失敗し
ても、諦めずに許し受け入れる事を繰り返しているいたら、いつの間にか、自分は自分これで
いいと静かに受け入れ、辛い事があっても癒される人達の仲間入りをしていることでしょう。
 
                                    平成27年 3月




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        「人生は『責任』と『好き』の微妙なバランス!」


トムを失った後、飼い主の責任という言葉に触れて気付いた事があります。
私は今まで、飼い主の責任として義務でトムを飼っていたのではなく、トムが大好きだから、ペットとしてではなく家族の一員として暮らしていたのです。
「責任」だからする事と、「好き」だからする事には大きな違いがあります。
例えば、トムが亡くなる前の数年は、病気治療に結構の費用がかかりました。
もし、飼い主の責任として治療をしていたら、費用がかさむのが辛くなる筈です。しかし、私
はトムが大好きだから、費用がかさんでもトムの治療をしてあげられる事が喜びでありました。
愛情は、責任に置いたら浅くなり、好きに置いたら深くなる事を知りました。又、心の有り様
は、責任に置いたら重苦しくなり、好きに置いたら喜びが心の中を駆け巡る事も知りました。

 そうは言っても、世間との繋がりを考える時、世間への責任をゼロにする事は出来ません。
責任をゼロにしたら、好きな事が音をたてて崩れ落ちてしまいます。
ゴルフが好きな人にとって、ゴルフが出来る事は、何よりの喜びです。
だからといって、仕事の責任を果たさず、ゴルフ三昧していたら生活は壊れてしまいます。
仕事は仕事としてしっかりやって、休日にゴルフを楽しめたら人生は豊かになります。
お酒の好きな人にとって、お酒が飲める事は大いなる楽しみです。
だからといって、連日お酒を飲み過ぎたら身体は壊れてしまいます。
ほどよい休肝日を設けて、身体をいたわりながらお酒を楽しめたら人生は豊かになります。

 責任を基準に置くと自分らしさが薄くなり、好きを基準に置くと世間との折り合いが悪く
なってしまいます。だからといって、責任を果たす為だけであったら、人並みの幸せは手に入る
かも知れませんが、自分らしさが薄れて、この世に生を受けた意味を見失ってしまうかも知れ
ません。両方のバランスを取る事はとても大切で、「責任」と「好き」という微妙なバランス
の隙間に、自分らしく・豊かに生きるチャンスが垣間見えるのです。

 これからの行動基準に、責任と好きのバランスを念頭に置いていこうと思います。
その為に、責任を果たして好きな事をやるのではなく、好きな事をやる為に責任を果たす。
言い換えれば、自分の好きな事を優先するとしても、責任を果たす大切さを忘れない。
そうする事が、自分らしく・豊かに生きる為に大切な事なのでしょう。
今まで、好きなものに出会う度に、好きになったその理由を一生懸命探してきました。しかし、
責任と好きの微妙なバランスを取る事が、自分らしく生きる要因だと気付いた今。責任に押し
負けない『好きだから』という事は、それだけで十分な理由になるのだと気付きました。

                                   平成27年 2月




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            「自分をどれだけ許していますか? 」
       
 


人間関係作りに大切な事は何だと思われますでしょうか?
その中で、人が自分の期待通りに動いてくれる事などは、上位にあげられる事なのでしょう。関係作りをする上で、自分は人の期待通りに動けたり動けなかったりしていながら、人には自分の期待通りに動いて貰いたいと思ってしまうのではないでしょうか?
あの人は、自分の期待通りに動いてくれるから、良い関係が作れると思ったりと・・・
でも、人が人の期待通りに動いてくれるという事は、大きな勘違いだと気付かなければですね。

 人は人の期待の応える為に生きているのではなく、自分の正しさを持ち、それを拠り所に自
分の人生を充実させようと生きているのです。人にはそれぞれの正しさがあり、自分の正しさ
とは違うという事を許し受け入れる事が、人間関係作りをする上で一番大切な事だと思います。
そして、正しさの違いを許す前に、先ず、今のあるがままの自分を許し受け入れる事です。
自分を許し受け入れられない人は、人を許せない。人を許せないから人との関係が作れない。
 
 自分より優秀な人を見てどう捉えるかは、関係作りの1つのヒントになります。
自分も頑張れば出来ると思う人は、その優秀な人が憧れの対象になり、良いお手本になる。
自分には出来ないと諦めている人は、ジェラシーになる。今まで、何度も挫折したり、諦めた
りした過去の体験が、ジェラシーを増長してしまう。ジェラシーは相手の問題ではなく、出来
ないと思っている過去の記憶の反応で、自分をダメだと思っているせいなのでしょう。少なく
とも能力の有無の問題ではないのだと思います。出来ないと思っている人は、自分の中の自己否定感を打ち消そうとして、強がったり自慢してしまいます。自慢したり敵対心がある限り、
人との関係は作りにくい。その敵対心を消す一番の方法は、ダメな自分を許し受け入れる事。

 ミスをしたりダメな人を見て、その人を怒ったり責めたりする時、その人を怒っているよう
で、実は過去のミスした自分を責めて、許せなかったせいだとしたらどうでしょう。
ミスした人を見て、注意は与えても責める事をしない人は、過去に自分がミスしたりダメな時、
無様な自分を許し受け入れてきた体験があるからだとしたらどうでしょう。

 人間関係作りの為には、先ず、あるがままの自分を許し受け入れる事が大切だと思います。
そうは言っても中々うまく行かないでしょうが、そういう自分を許す事から始めませんか?
自分を許し受け入れる事を繰り返している内に、いつの間にか傍にいるとホッとする穏やかな
人間になって、自然に関係作りが出来たら素敵ですね。思い通りになってもならなくても、起
きた出来事を静かに受け入れられる。そんな自由な人間を生きて行けたら、この先に何が待ち
受けているかを心配する必要がなくなりますから、いつも穏やかに微笑んでいられますよね!

                                   平成27年 1月





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