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第200号「所長の独り言!」平成28年9月
第199号「永遠に未熟な私達の生き方!」平成28年8月
第198号「この苦しみは自分の責任!」平成28年7月
第197号「自立パート2!」平成28年6月
第196号「自立!」平成28年5月
第195号「私達はもう持っている!」平成28年4月
第194号「超然と座り続ける男!」平成28年3月
第193号「人生は思い通りにならないもの?!」平成28年2月
第192号「新年のご挨拶」平成28年1月







                 「所長の独り言!」



平成10年の春から書き始めた独り言は、偶然にも私の今月の70歳の誕生月で、丁度200号になりました。最初の数年間は、四季折々4ヶ月に1度書いていましたが、いつしか毎月になってここまで来てしまいました。未熟ながらもその時々で自分なりに感じたものを書き残しておこうと始めたのです。今、記憶が薄れていく中で読み返すと、どの号も写真のアルバムのようにその時その時にどんな思いでいたのか、昨日の事のように鮮明によみがえってきます。
何千何万という私の身に起きた出来事の殆どは、記憶の彼方に忘れ去られてしまいましたが、
その中の一部の出来事は独り言に書かれて、私の大切な人生のアルバムとして残りました。
心の欲するままにしても矩を超えずという「従心」70歳の誕生月に、丁度200号を迎える
不思議な縁を思うと「所長の独り言」は、ここでちょっとお休みしてみようかなと思います。

         これまで独り言を書き続けてきて
         どう学んだかと 自分に問う時
         独り言といいながら いつも独りではなかったのです
         いつも誰かとの関わりの中で学んできました

         自分の正しさと 誰かとの正しさをぶつけ合いながら
         それぞれの正しさの違いを学んできました
         近い人であったり 遠い人であったり 
         それぞれの距離感の違いを学んできました

         喜んだり 怒ったりしながら
         人の温かさ 冷たさを学んできました
         泣いたり 笑ったりしながら
         人の優しさ 哀しさを学び
         許し受け入れる事の大切さを学んできました
 
         そして
         生きている事のありがたさを学んできました
         いつも 私の学びに誰かが必要だったのです
         だから今 目の前にいるあなたへ 心からの感謝を捧げます
         あなたは私の学びに大切な人でしたから・・・
     
  そして、200号までお付き合い頂いた心優しきあなたへ、心からの感謝を捧げます。
        
                                  平成28年 9月




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             「永遠に未熟な私達の生き方!」
       
 


独りでぼんやりしていたら、何か大切な事に気付けるような気がしてこの独り言を書き出しました。先ず浮かんだのは、自分の短所欠点をどう扱うか。今までどちらかというと自分の短所欠点から目を背けて、心の中で言い訳をしながら生きて来ました。自分の短所欠点を言い訳で誤魔化していますから、苦手な事をやる時、何となく不安ですよね。なんとか改善しようとするのですが、弱点の悲しさで努力しても中々改善出来ません。得意な事は結構、努力したら努力した分だけ実を結ぶのです。そして、得意な事だとなんとか出来るだろうという心強さがあるから不安になる事はそうそうありません。この際、自分の弱点に言い訳しないで正直に向き合い、心の隅に引っかかっているこの何とも言えない不安感を解消していきたいと思います。

 理不尽で無常な人生ですから、これから先、悩み苦しみが無くなる事はありません。そして、
108つの煩悩を持つ私達ですから、その原因も無くなる事は決してない。今までもそうでし
たから悩み苦しみは繰り返しやってきて、きっと終わる事はないのです。ブランコのように前
に行ったら必ず後ろに戻ってくるように、良い事・悪い事が、繰り返し起きてくるのでしょう。
繰り返しが避けられないのなら、どう対処するかですね。悩み苦しみの大きな原因は、自分の
都合や過大期待から生じるのですから、自分の努力や実力に応じて調整するのが一番!
辛い時に「今までの自分の努力が足りなかったんだ!」と思えたら、悩み苦しみは限りなく小
さくなっていくのでしょう。生きる限り永遠のテーマとしてチャレンジする価値はありますね。

 私は毎朝、般若心経を唱えています。父親が亡くなってから34年間続けてきましたから、
今まで一万数千回は唱えていることになります。唱えている時は無心に唱えていますが、日常
の出来事の中で、フッとその一節が浮かんで来て、起きた出来事と繋がって何か大切なものに
触れた気がします。知らず知らずの内に自分の中に染み込んでいるのでしょうね。
のんびりお風呂に入っている時など、いつのまにか念じている自分に気付いて苦笑いです。

 今回の本題に戻ります。私達は永遠に未熟ですから、人として生きる為に自分の未熟さから
目を背けず素直に認める必要があるのでしょう。未熟さを認めたからと言って卑下する必要は
全然ないのです。なぜなら未熟だからこそ人として完全なのです。そして未熟だからこそ生き
る意味があり、自分の都合や期待という未熟な邪念を調整しながら成長する目的があるのです。
邪念を持つが故に苦難も苦難の原因も終わりがない。終わりがない故に邪念を持っても仕方が
ない。仕方がないのに邪念を持って苦しむ。邪念を持たねば苦難から解放されるのに・・・。
この終わりのない永遠の輪廻転生の繰り返しの中で、人生のブランコに揺られながら、邪念を
浄化しながら、分相応に調整出来た分だけ、悩み苦しみから解放されていくのでしょう。
悩み苦しみは誰のせいでもなく、自分の都合や期待のせいだと普通に思えたら凄いですよね!

                                      平成28年 8月




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             「この苦しみは自分の責任!」
       
 


またまた、今月号は「苦しみ」についてがテーマです。 
苦しみの中でも、特に親しい人間関係の中での苦しみが大きく、又、多いのです。
たまたま、ここのところのご相談が、長年の兄弟間の不仲な事や、親子間のトラブル等が続いておりました。そして、私の方でも些細な事でひどい事を言われて気持ちがへこんでいました。丁度その時、教育文化振興会から関係資料と共に「被害者と責任」というレジメが同封されてきました。まさに今、この苦しみから脱出するには、絶好の神様からの贈り物でした。

 レジメの内容は、「被害者」と「責任」という視点の違いから見た、可能性の広げ方です。
『鍵を掛けていたのに自転車を盗まれて被害者になっている事例では、
自転車に付いている鍵だけでなく、もう一つ別な鍵を付けるなどしてダブルロックが原則です。
一つの鍵だけでは盗まれる事は聞いていたが、自分だけは大丈夫と思ってこの事態を招いた。
あるいは停め方に気を付け、人目に触れやすい所に停める。チェーンロックを固定物に回して
掛ける等をしていたら、そもそも盗難に遭わなかったかも知れないなどです。

 被害者と考えている時は、このイヤな出来事は「相手」あるいは「まわりの状況」が、この
出来事を作っていると見ています。したがって、常に自分はその事を受け身で発想も受動的に
なっています。そして、自分がその状況に影響を与える事が出来たかどうかについては、なん
の影響も与える事は出来なかった。つまり、「不可能」だったと考えてしまいます。

 これに対して、自分が責任であると捉えている時は、その出来事が被害の体験になっている
のは、他の誰でもなく自分が作っているのだという見方をしています。
従って、その事に対してより積極的に自発的に考え、その解決は常に自分がどうしたいのかと
いう「思い」や「ビジョン」に従って発想します。
その結果、常にその出来事に影響を与える沢山の「可能性」を発見するのです。
「被害者」としているか、「責任」としているかは、一つの出来事に対して二つの態度であると
言えるのです。どういう見方をするのがうまく行くかは、私達一人ひとりの選択なのです』

 私の落ち込みは、このレジメを読んで一気に解消しました。ひどい事を言われてウジウジと
被害者でいましたが、そのきっかけは私の不注意さが発端であった事に気付きました。
確かに相手の言い方はひどいですが、私がもっと思いやりを持っていたら、今回のトラブルは
起きなかったのだと思うと、私の責任を痛感して相手を責める気持ちが薄れてしまいました。
そしてこの先、どんな状態、どんな関係でいたいのかという「思い」や「ビジョン」に沿って、
自分が主人公という視点で、今、出来る事をしっかりとやっていこうと固く決意しました。
                          
                                   平成28年 7月




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                「自立パート2!」
       
 


先月号で自立についてお伝えした時、「あなたは今の平凡で普通の自分に満足していますか?」と問いかけました。この事はとても大切な事だと思いますので、今月号はその続編です。
「あなたは自分の事が好きですか?」と、問われたらどう答えるでしょうか?
「大好きです。まあ好きな方です。普通です。どちらかというと嫌いです。大嫌いです。」
おおざっぱに分けると、こんなところでしょうか? この違いはどこから来るのでしょう?  
 一つは、60点の実力なのに、100点の結果を求める「欲深さ」から来るのだと思います。
欲深さは自分に対する甘えと過大期待から生じ、過大期待が不満を生じさせ、不満が怒りを、
怒りが不安を生じさせ、不安な自分を嫌いになっていくのでしょう。ここから脱却するには、100
点の理想の自分と60点の現実の自分とのギャップを調整して、分相応に身の丈を生きて行く
事です。無い物ねだりの100点の結果を求めるのではなく、自分の実力に応じた60点の結果
でいいと納得して分相応に受け入れて行く事が、自立への大切な一歩になるのでしょう。

 もう一つは「自分はダメだ」という自信のなさです。大人になって突然そうなったのではな
く、多感な子供時代に周りの人達から受けた扱いによって徐々に植え付けられたのでしょう。
その中でも子供を授かったばかりの未熟な親から受けた扱いが、一番影響が大きいのでしょう。
何かで失敗したり、親の期待にうまく応えられなかった時、がっかりした顔をされ、本当にダ
メな子だと嫌みたっぷり言われる。劣等感を持った親であればある程、子供に完璧さを要求し
失望をあからさまにぶつけてくる。がっかりされながら育った子は、幼い心に「自分はダメだ」
という自信のなさを植え付けてしまうのは当然な事でしょう。私も親として自分の子育てを振
り返ってみますと、はなはだ未熟な親であった事を痛感するしかないのです。

 人は皆、寂しく劣等感を持った未熟な生身の人間であるという事を理解する事が大切ですね。
そして、劣等感や自己評価の低さを感じた時、本当にそうなのだろうかと疑ってみる事です。
自分に価値がないのではなく、子供時代に愛する能力に欠けた人達に、あるがままの自分を受
け入れて貰えず、ありのままの自分ではダメだと否定された不運さが影響しているのでは?と
疑ってみる事です。否定されたり失望された時、言い訳をしたくなったら「そんな事で言い訳
しなければならない程、自分はそんなに価値のない人間なのだろうか?」と疑ってみる事です。
この疑う心が、子供時代に植え付けられた自信のなさから自立する大切な二歩目になるのです。

 「あなたは自分の事が大好きですか?」と問われたら、「ハイ、大好きです!」と答えられ
たら素敵ですね。自分を尊敬し他者を尊敬し、自分の心に正直に生きていたら、結果にマイナ
スがあったとしてもそれはそれでいい。大事な事は結果ではなく自分の選択に納得して、何が
あろうと卑下することなく、堂々と自分は自分これでいいと自立して生きて行く事ですから。

                                   平成28年 6月




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                   「自立!」
         


先月号の「私達はもう持っている」を引き継いで、自立について考えてみたいと思います。この自立を考える上で大事なポイントは、先月号に書きましたように、自分は自分の人生に必要なものをすでに持っている事に気付く事です。100億円でも代えられないものを持っている事に気付かない人は、自己評価が低くなり、他者評価に依存して振り回されやすくなります。
アドラーは自立とは、自分の価値を自らが決定する事と言っています。そして、その為には特別な存在にならなくても、優れていなくても、平凡なる自分で良いのだと言っているのです。
アドラーの言わんとする事は、平凡で普通である勇気が必要だと言うのです。

 昨年一年間、どんなに無様な自分でも受け入れる事に焦点を合わせて生きてきました。
その過程で一つの結論を得ましたが、平凡で普通だけでは自立するのは中々難しいと思います。
ノーベル賞を取る程の優秀さはなくても、少なくとも何か自分らしい特徴が必要だと思います。
他人と比較して自分のあら探しをすることなく、そのまんまの自分でオーケーと言える事。
何があっても言い訳する必要性を持たず、人に認めて貰おうとして自慢する必要性を持たず、
自分は自分これでいいと言える事。それには自分にしか出来ない存在理由を持っている事。
例えば、親子関係であれば、この世にどれだけ親がいても、この子の親は私しかいないとか。
大切な人との関係であれば、この人のわがままを受け入れてやれるのは自分しかいないとか。
平凡で普通な自分でも、自分なりのそう思える存在理由を持っている事が大切なのでしょう。

 そしてもう一つの存在理由として、ワクワクする目標・夢を持つ事が必要だと思います。
ワクワクする夢の実現の為に今出来る事をする。そこに自分の存在理由が生まれるのです。
例えば、私は95歳までゴルフのクラブ競技に参加し続けようと目標を決めています。
私は今まで、46年間ゴルフをして来ましたが、プロになれるような実力はなく、クラブチャ
ンピオンになれる技量もありません。只、平凡な普通のゴルファーです。
 でも、健康維持の為にプレーするのではなく、優勝を目指して努力・精進し続けたいのです。
朝晩のストレッチ、月平均180qの散歩、腹筋350回、腕立て伏せ110回、スクワット150回、
毎朝の素振り、パットの練習は欠かさずやっています。例え、寿命や病気・ケガで目標が達成
出来なかったとしても良いのです。大事な事は結果ではなく目標達成の為に、今、自分が出来
る最善をやり続けて、平凡な自分でも生きる意味を感じながら生きていく事が大切なのです。

 そしてもう一つ忘れてならない事は、今の平凡で普通の自分に満足しているかという事です。
平凡で普通の自分でも、自分の個性・一票の重さを実感しているかという事です。
『自立』には、アドラーの言う平凡で普通でいいという勇気が必要なのです。そして、平凡で
普通であるからこそ、生きる意味が実感出来る自分の夢・目標を生きる必要があるのでしょう。

                                     平成28年 5月




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             「私達はもう持っている!」



今、自分には何かが足りないと思ったり、あれさえあれば幸せになれるのにと無いものねだりをしてしまう時、そんな不足感を和らげる「幸せになるワーク」というものがあります。
良かったら試して下さい。やり方はこうです。今の自分にとって『もし、失ってしまったらとても悲しくなるもの』を3つ上げて、本気になって3分間それを失った状態を想像するのです。
例えば、家族の一員を・・会社職場を・・マイホームを・・大切な人を・・健康を・・・等々
いかがでしようか? もしそうなったらと思うと、ちょっと怖くなりませんでしたか? 
私達はついつい無い物ねだりしがちですが、大切なものはもう持っているのですね。

 お金がもっとあったらうまく行くのにと思った時に、「幸せになるワーク」をもう一つ。
「お金が欲しいならいくらでもあげますよ。但し『目と耳と交換なら、1億円でも100億円
でもあげますよ』」と言われたら、どうします?とんでもない、それなら結構です欲しくあり
ませんと言いますよね。私達は100億円よりも価値あるものをすでに持っているのですね。

 わずか2歳にして、高熱によって「見えない、聞こえない、しゃべれない」という三重苦を
背負ったヘレン・ケラー。森の中に住むヘレンのもとへ、ある人が訪ねてきた時のことです。
ヘレンは訪問者に「森はどうでしたか」と尋ねます。それに対して訪問者はこう答えたのです。
「別に・・・」と。この言葉にヘレンは衝撃を受け、次のような言葉を私達に残しました。

 『目の見えない私から、目の見える皆さんにお願いがあります。明日、突然目が見えなくな
ってしまうかのように思って、全てのものを見て下さい。そして、明日、耳が聞こえなくなっ
てしまうかのように思って、人々の歌声を、小鳥のさえずりを聴いて下さい。明日、触覚がな
くなってしまうかのように思って、あらゆるものを触ってみて下さい。明日、嗅覚と味覚を失
うかのように思って、花の香りを嗅ぎ、食べ物を一口ずつ味わって下さい。五感を最大限に使
って下さい。世界があなたに見せてくれている全てのもの、喜び美しさをどうぞ讃えて下さい』

 目の見えないカップルは、いつもお互いの顔を触り合うそうです。二人の夢は1秒でもいい
から相手の顔を見る事・・・。生まれてずっと耳が聞こえなかった女性が、人工内耳を付けて
「聞こえますか?」と医者が問いかける声を初めて聴いた瞬間、号泣して泣き崩れたそうです。
ありふれた道を普通に歩ける事。恋人の顔を普通に見られる事。好きな歌手の歌声を普通に聴
ける事。友達と、家族と、大切な人と、笑いながら普通におしゃべりできる事・・・等々

 みんな普通、普通。いつも当たり前にやっている事。しかしそれらの全ては奇跡なのですね。
そして、これらの人達の体験は、無い物ねだりしがちな私達への、大切なメッセージなのすね!

                                   平成28年 4月



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              「超然と座り続ける男!」
       
 


仏教徒97%と言われる、信仰の厚い仏教国で、ある男に出会った。
用事を片付ける為、雑踏の中を目的地に向かって歩いている時、その男に出会った。
横断歩道橋の柱の陰に、その男は座っていた。
私の目に入った瞬間、私は動けなかった。只、じっと凝視した。
どれくらい時間が経ったのだろう。気が付くと、私の目から静かに涙がこぼれていた。

 元々、肌の色が黒いのか、垢にまみれて黒いのか分からない。
着ているシャツは、何重にも垢がこびりついていて元の色が何色だったか定かではない。
髪は伸び放題の縮れ毛を無造作に束ねて後ろで縛ってある。
ズボンの裾は、擦り切れ破れてぶら下がっている。足は、真っ黒の裸足。
身に付けているもの全てが、みすぼらしいを通り越して、酷い。

 しかし、前方の一点を見据えている目は峻厳なものを放っている。
周りの喧噪をよそに、一点を見据え超然と座っている。
自分を守り証明するものは、何一つ身に付けていない。
しかし、超然と座り続ける姿に心が釘付けになり動けなかった。
誇れるものは何一つ身に付けてはいないが、超然とした心を誇っている気がした。

 立ち去り難い心にムチ打って用事を片付ける為、そこを一旦離れた。
用事を片付けて1時間半程経った後で、再度、そこに行ってみた。
男は、1時間半前と同じように微動だにすることなく、そこに超然と座っていた。
痩せこけ、まともなものは食べていないようだ。
そう思った瞬間、ポケットに手を突っ込んだ。お金を差し出そうと思ったからだ。
でも、渡せなかった。その男の尊厳を汚すような気がしたからだ。
享楽の喧噪の中、自己の尊厳を手放し、遊び浮かれる人達の中に紛れ込みながら、何か大切なも
のに気付かされたような気がして心が震えた。そして、その場からそっと離れた。

 身だしなみには気を付け、オンボロ車ではなく高級車に乗り、立派な家に住み、一定のステー
タスを誇示することが、一つの成功であり幸せだと思っている私達。しかし、身だしなみは立派
にしていても、一定のステータスを誇示していても、卑しい人間はうようよいる。
あの男に出会って以来、自分の中にある弱さや卑しさに出会う度に、私の心が震えます。
ステータスもへったくれもない酷い身なりで、卑しいオーラを出すことなく、自分は自分これで
いいと超然と座り続ける男が、あの日以来、私の心の奥に超然と居座っているからです。

                                   平成28年 3月




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           「人生は思い通りにならないもの?!」
         


私は今まで、人生は思い通りにならない事の連続だと思って生きてきました。しかし、昨年の独り言第189号の「人生のピーク」を書いたあたりから、思いに変化が起きてきました。
『今は、若い時分に比べて不安とか怖れが少なくなって、ずいぶんと生き易くなっている事に気付きました。若い時分には未熟さに臆して、わずかばかりの実力さえも発揮出来ずに空回りしていました。今は、今の実力に応じた力を発揮する能力が身に付きました・・・』
 
 今の実力に応じた力が発揮出来るようになったのは、どんな結果でも今の自分の実力や努力
に応じた結果だと受け入れられるようになったからでしょう。そして、受け入れられると過大
期待は弱まり、結果への不安が小さくなって生き易くなったのが大きいと思います。今まで実
力・努力以上のラッキーな結果を手にする事がありました。そのラッキーさを知らず知らずの
内に、実力や努力の結果と勘違いしていた事にも気付きました。同時に能力の差は、生まれつ
きのものだと思っていましたが、能力よりも努力の差でしかないと思うようにもなりました。
そう思うようになって、優秀な人を見て単純にうらやましいと思っていた自分が笑えます。
努力の差だと思うようになると、諦めずに小さな挑戦をしていこうとする勇気が湧いてきます。

 ここまで生きてきて振り返ると、全てが思い通りだったのだと思えるようになりました。
過去のラッキーさに依存して、これ位やっても大丈夫だろう、これ位やらなくてもなんとかな
るだろうと思って、自分に甘えていただけの事。そして、あの時もう少しちゃんとやっておけ
ば良かったのにと、ある程度は予測していた筈です。大事な事はどんな結果になろうとも、自
分が気付こうが気付くまいが、結局は自分の思い通りの結果だったのですから。

 今思うと、自分の実力・努力に応じたものしか手にする事は出来ないのですから、思い通り
にならない事の殆どは、結局、自分の実力・努力相応の思い通りの事だったのですね。
自分の実力・努力が足りないから、思い通りにならなかっただけの事なのです。
60点の実力・努力で100点の結果を求めるから、40点分の思い通りにならない事が起き
ていたのです。40点分の実力・努力が足りなかっただけの事。誰のせいでも無く自分のせい
だと思えたら、なんだか生きる事が自由で楽な感じがして、嬉しくなってきます。
後は、結果への期待値を自分の実力・努力に応じたものに調整すればよいだけの事ですから。
この調整が正に、分相応の生き方なのだと、今頃になってやっと気付いた次第です(笑)

 今の実力でしたい事やるべき事に最善を尽くしていたら、結果にマイナスがあったとしても
それはそれでいい。自分の選択に納得して自分は自分これでいいと受け入れられるようになっ
た事が嬉しいですね。思い通りにならない事の元凶は、過大期待や甘えだったのですから。 
                                          
                                    平成28年 2月




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                「新年のご挨拶」
       
 


色々な事があった一年が終わり、新しい年が明けま
した。私達は旧年をリセットして、新年を迎えるとい
う良い習慣を持っています。皆様はどのように新年を
お迎えになられたでしょうか?
一年の計は元旦にありと申しますが、リセット後の一
年の計はどのようなものでしょうか?

 私は昨年、一年間を通して無様な自分を許し受け入
れる事に専念しました。何百何千の無様な自分を見続
けたら、無様な自分を見る事に慣れました。慣れると
言い訳や何かのせいにする事も弱くなりました。
100点でありたいけど、60点の自分でOKと受け
入れられるようになりました。

 無い物ねだりしないで今の実力でしたい事やるべき
事に最善を尽くしていたら、その結果マイナスがあっ
たとしてもそれはそれでいいと思えるようになった事
はとても大きな事でした。生きる事が、チャレンジす
る事が、ものすごく楽になりました。他人の評価を気
にする事なく、そのまんまの自分でいいと思える事が、
こんなに楽な事だと分かって、嬉しくてたまりません。

 この一年、色々な事があるでしょうが、行動した結
果、手にするものは失敗でも成功でもない。自分の人
生を素晴らしいものにする為に、どうしても必要な体
験でしかないのだと心に刻んで、ますますあるがまま
の自分を受け入れ、したい事をする喜びに感謝しなが
ら『楽に、楽しく!』生きて行こうと思います。

 新年が皆様にとりまして、楽しく幸せな一年であり
ますよう、心から念じております。
   
                     平成28年 1月



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